2021.05.28
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

仏説とは

釈尊の行状とその教法(17):寂静や涅槃へ至らしめるもの、それが如来の言葉である
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

如来の言葉(*वचस्, གསུང་)のことは、仏説・仏語・仏言などと様々な術語で呼ばれているが、そもそも如来のことばというのは如何なるものであろうか。

如来の言葉や仏説とは、まず法と呼ばれるに相応しいものと関係したものを表現対象をとしているものである。そして、欲界・色界・無色界のすべての三界における煩悩を断じさせる力をもっているものである。さらに、如来の言葉の力は、それによって寂静や涅槃にいたらしめる、という結果を生み出すものである。このような表示対象と作用とその結果をもった表現、これが仏のことば、如来の言葉と呼ばれているものの定義である。この仏説の定義は、弥勒の『宝性論』で

実質上法に準拠し関連性があり、三界のすべての雑染を断じさせるもの、これが仏のことばであり、それは何であれ寂静という効能を表現するものである。聖仙はこう説かれたのであり、それ以外のものはそうではない。(1)रत्नगोत्रविभागः पंचमः परिच्छेदः: यदर्थवद्धर्मपदोपसंहितं त्रिधातुसंक्लेशनिरबहणं वचः। भवेच्च यच्छान्त्यनुशंसदर्शकं तदुक्तमार्षं विपरीतमन्यथा॥

第四章

と説かれるものである。

如来の言葉や仏教のことを「善説」(*सुभाषित, ལེགས་བཤད་)ともいうが、これは「善く説かれたもの」という意味であり、その場合の「善い」ということには、十種類の意味がある。

この十種類の「善い」ということの意味とは、

  1. 現等覚である仏陀自身、すなわち行うべきことを正しく行なっている方その方自身から発せられたことばであるので、善である。
  2. 仏陀自身がすべての衆生を聴衆として説いたものであるのでので、善であるとされる。
  3. ある時は説くがある時は説かないといったことがなく、継続的に説いたものであるので、善である。
  4. 決して言葉に詰まり躊躇っている状態もなく、何ら淀みなく流れていくように説いているので、善なるものである。またすべての衆生の思惑に応じており、彼らの考え方に沿うので、善である。
  5. 雷鳴のように多くの者たちに深く響き渡る偉大なる言葉であり、論理的に正しい意味をもちその言葉に耳を傾けたくなるやさしく妙なる言葉であり、その言葉は記憶にも残りやすく、耳心地もよくその言葉に好感を抱いてくような言葉であり、様々な希望をすべて叶える明確な表現よりなる言葉であるといった五つの妙なる性質をもつ言葉であるから、これは善である。
  6. ひとつの音節だけによって、三千大千世界のすべての衆生が聴いて理解できるので、善である。
  7. 説法を聴聞に集まってきたすべてのものが例外なく聴いて理解できるので、善である。
  8. 事実に反することを事実として語ったり、事実を事実でないことのようにに装ったりすることもなく、二辺を断じた中道を説くものであるので善である。
  9. 教化すべき対象となる聴衆の精神状態が、その教えを教化するのに相応しい時期として相応しい時期にあることから、善である。
  10. また六十種類のことばの声調よりなる言葉であるので、善である。

以上の十種類の意味での「善く説かれているもの」これが、如来の言葉の基本的な特徴である。

このような如来の言葉を、その発生時期を通じて分類すれば、三転法輪であり、表現対象で分類したものが了義・未了義や三蔵であり、表現形式で分類したものが十二部教であり、その発生源を通じて分類したものが、直接の言明・加持の言明・許可の言明の三つであり、聴衆である所化を通じて分類したものが、声聞蔵と顕教と密教よりなう大乗蔵との二蔵でありそれらが一体どのようなものなのか、ということをこれから見ていきたい。

仏説をチベット語に翻訳したもののことを「カンギュル」といい、ゴマン学堂ではカンギュルを毎年全ページ唱える法要を行なっている。

1 रत्नगोत्रविभागः पंचमः परिच्छेदः: यदर्थवद्धर्मपदोपसंहितं त्रिधातुसंक्लेशनिरबहणं वचः। भवेच्च यच्छान्त्यनुशंसदर्शकं तदुक्तमार्षं विपरीतमन्यथा॥

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