釈尊の行状とは、仏教の開祖である釈迦牟尼如来がこの地上で如何なる活動をされたのか、ということを示すものであるが、如来の活動の中心は衆生に説法をする、ということであり、私たち仏教徒にとって仏法こそが最も重要な関心事であり、知らなくてはならないものの中心であり、同時にそれは仏法僧の三宝の中での真の救済である法宝そのものであるので、救済そのものである。しかるに仏教に関わるすべての人は、釈尊が何を説いたのか、釈尊の説いた法とは何か、すなわち仏教とは何か、ということをその全体像でも知っていなければならない。
これについても様々な解釈や学説が百花繚乱の状態であるが、第二のナーランダー僧院と呼ばれているデプン僧院のゴマン学堂では、一体仏教とはどのようなものなのか、ということを紹介することは、いまの日本において決して無意味なことではないと思われるし、本サイトはデプン・ゴマン学堂の無形の知的文化遺産を日本語で日本の人々に紹介することを目的として運営されているものであるので、これについてのデプン・ゴマン学堂の公式の基本的な考え方を紹介してみよう。
デプン・ゴマン学堂の教学の中心は、ゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパとその弟子の教義をクンケン・ジャムヤンシェーパの学流に基づいて理解することにある。細かい教義については大変深淵な哲学的な議論も多く、伝統的なカリキュラムに基づいてそれを学べば約二十年もかかり、一般の方々にとってそれをすべてチベットの僧侶たちのように出家して、昼夜を問わず学ぶことは非常に難しい。
そこでサカダワの後半からチベット暦の初転法輪にあたる6月4日まで、クンケン・ジャムヤンシェーパ二世クンチョク・ジクメワンポの著した『チョーネ版大蔵経論疏部目録・如意宝蔓』の第二章に相当する「教説たる正法の規定」という部分を、分かりやすく読みくだいた形で、これから翻訳しながら、本サイトの読者のみなさまと読み進めていきたい。
釈尊が説かれた正法とは何か
釈尊が説かれた教え、とは一体如何なるものであろうか。釈尊が説かれた教え、つまり仏教は正法・妙法と呼ばれるもののことであり、それが一体どんなものなのか、ということを考えるのには、如来の説かれた経典と論書とはどのようなものなのか、ということを知る必要があるので、それを説明してみよう。そのためには、仏説・仏語・経典とは一体如何なるものか、ということが分からなければならないし、また教義や思想を解説している論書とは一体何か、ということが分からなければならない。まずは、仏説・仏語・経典とは一体何か、ということを知るために、正法・妙法・仏法と呼ばれるものが一体何のことなのか、ということから見ていきたい。
正法の定義
まず「正法」(सद्धर्म)とは、それを対象として追い求めることで、身体を有して生まれてくる生物が、妨げとなっているもの、障害となっているものを尽くすことができる、そのための方法のことを意味している。これは「一切の苦しみと障害を取り払うもの、それが正法である」といわれる通りである。
正法の語義
一般的に「法」(dharma)という表現には、10種類の意味がある。
このことはヴァスバンドゥ(वसुबन्धु 世親)の『釈規論』व्याख्ययुक्तिः で
「法とは、知るべきもの、道、涅槃、意識の対象、福徳、命や境涯や運命、教説、これから起こること、規則、法律や伝統的な宗教的慣習のことを指している。」
व्याख्ययुक्तिः II
と説かれる。
これを具体的に用例でみていくと、たとえば経典で「一切の諸法はそのようなものであると知りなさい」と説かれているような場合には「知るべきもの」「知らなくてはいけないこと」というものを指してそれを「法」というように表現されている。また「正見は法である」という場合には、「道」すなわち解脱に至らしめる智慧のことを指している。「法に帰依している」という場合には、「涅槃」のことを表している。「法処」という場合には、意識の対象のことを表している。「釈尊はその時、取り巻いている妃や若者たちとともに法を行じていた」という場合の「法」は、享受している「福徳」のことを表している。「子どもたちは見えている法を大切にしている」という場合には、「寿命」や「境涯」のことを表しており、「法とはこのようなものである。すなわち経典と旋律で表現されるもの…」という場合には言葉で表現されている「教法」「教説」のことを表している。「この身体は、老いていくという法である」という場合には、これから起こることについて表している。「比丘の四法」という場合には、「決定事項」や「規律」のことを表している。「地域の法」「民族の法」という場合には、その地域の法律や宗教などのことを表している。
このように「法」「ダルマ」という言葉には様々な意味が元来であり、ひとくちに「仏法」といってもその「法」には様々な意味があるが、それらが何故「法」(dharma)と呼ばれるのか、といえば、ダルマという言葉は「保持する・維持する」という意味の動詞から派生した名詞であり、何かのものがそれが一体何か、というそのことを保持し、維持し、継続しているもののことを「法」という言葉によって表現しているのである。
すべての「知るべきもの」「知ろうとする対象」のことを「一切諸法」と表現するのは、それぞれのものがそれぞれの名称で呼ばれるためのある個体・属性すなわち定義・特性を保持し、維持していることからそれら全体を「法」と呼ぶことができる。この定義・特性には、個別的な特性・定義となる「自相」と、他のものに共通しており、それ以外のものから峻別して、普遍的にその特性とすることができる「共相」との二種類があり、卑近な物質から仏の一切智にいたるまでのすべてのものが、如何なるものであれ、それぞれそれ自体がもっている排他的な特性である「自相」と他のものと共通している「共相」との二種類の特性をもっている。「共相」の最も代表例として「一切の有為は無常である」「一切の有漏は苦である」「一切法は無我である」「一切の涅槃は寂静である」というように、多くのものに共通している特性や命題的な認識における定義として機能するようなものがある。
また「道」「涅槃」のことを「法」であると表現している場合には、それは輪廻へと転生して落ちていくことから救おうとして保持して維持しているからそれらは「法」であると表現されることになる。「法処」などの意識の対象のことを「法」と呼ぶのは、自相を維持しているもの、あるいは意識が捉えているものである、という観点でそのように表現されるのである。「福徳」のことを「法」というのは、悪趣へと落ちることを退けてその状態を保持して維持することからそのように表現される。「命」や「境涯」や「運命」のことを「法」とするのは、身体や肉体を保持して維持している、あるいは種としての同一性を維持していることによる。「教説」のことを「法」とするのは、意図している対象を誤りのない正しく保持して維持していることによる。「これから起こること」のことを「法」とするのは、そのものが生起する原因となるものであるからである。「決まり」や「規則」のことを「法」とするのは、それが決められている基準を維持して保持しているものであるからである。そして「地域の風習」や「宗教的な道徳」を「法」であるとするのは、その風習や道徳にそれ自体を模範として行動することを保持して、維持することによっている。
それではこれらの意味をもつ法のうち最高のものは何か、といえば、それは「道」「涅槃」「教説」の意味で使われている場合の法である。これらを「勝法」「正法」すなわち「サッダルマ」と表現する。saddharmaのsadとは「完全なる覚り」すなわち「正等覚」のことであり、ブッダのことであり、その「勝れた者」「正しく覚った者」が説き示した「法」であるので、「勝法」「正法」という。あるいはまたsaddharmaのsadは「最勝のもの」「最高のもの」という意味であり、それらは「最勝のもの」「最高のもの」であり、同時に「法」でもあるので、「勝法」「正法」と表現される。あるいはまた勝れた人物、最勝なる人物がそれを行じなければならない法、享受しようとしたり、享受している「法」、すなわちそれを到達した境地として保持し、維持しているもの、という意味で「勝法」「正法」と表現されるのである。
正法の分類
それでは「正法」「教法」を分類すればどのようなものがあるのか、といえばそれには二種類があり、釈尊などの如来の言葉そのものである「聖教法」、その言葉によって実現した知、その言葉をもとに修行したことによって実現した境地である思想や境位である「証解法」との二種類がある。前者が後者の原因となるものであり、後者は前者を原因としている。これについてヴァスバンドゥは『倶舎論』(Abhidharmakośa)で、
釈尊が説かれた正法には二種あり、それは聖教と証解とを本質とする。それを護るとは、それを語ることと、それを成就すること以外にはない。
『倶舎論』
と説いているのは大変有名であり、これは仏教とは如来のことばと思想のことである、ということを明確に説いており、仏教を保持して、維持して、護持する、ということは、如来たちの言葉を自分たちも口にだして語る、ということと、それを実践して私たちの妨げとなっているもの、障害となっている煩悩や悪業を断じて尽くすこと以外にはない、ということを説いている。
また正法を時間軸上で分類して、実現した境地である「果法」、それを実現してゆく時の「成就法」、それを言語化して説明している時の「所説法」「所釈法」というように三つに分類することもできる。