釈尊は29歳の7月8日にカピラヴァストゥを去り、出家して乞食の沙門となった。そこから苦行に入るまで3ヶ月間は各地を托鉢しながら遊行していった。
ヴァイシャーリーの仙人たちの地と呼ばれるところで、当時様々な方法で様々な苦行を実践し修行者たちが暮らしていた。そのなかでもアーラーダ・カーラーマという人物は第三無色定たる無所有処を得ていたようで、彼は300名の弟子を指導しながら、弟子たちに無所有処の三昧の実現方法を教えていた。そこで釈尊もそこで修行している者たちと同じように全ての苦行を彼らより倍の程度行った。アーラーダ・カーラーマからも無所有処の三昧について聴聞してすぐにその境地に達することができたので、その場所にいた全てのものは驚嘆して釈尊のことを「偉大なる沙門」(マハーシュラマナ)と呼ぶようになった。アーラーダ・カーラーマは釈尊にここに留まって自分と一緒に二人で指導者しましょう、と提案してきたが、私が目指している境地は解脱の境地であり、このような者ではないのでさらに目指して修行しているのではないという理由で断った。
修行者となった釈尊が当時の宗教界で卓越した者となるのには時間は一切かからなかった。すぐに釈尊の噂を聞きつけた浄飯王は、数百人の家来を派遣してきて、釈尊の修行仲間となるようにヴァイシャーリーまでわざわざ送ってきた。釈尊は修行者には家来もいらないし、そのような大人数が一緒に修行すると他の修行者たちにも迷惑になるので、王の気持ちはありがたいが、といって断って全員を帰らせたが、カウンドィニヤなどの五人だけは、善根があるように思えたので残ってもよいとし、この五人も釈尊と一緒に修行をすることになったが、釈尊はアーラーダ・カーラーマの申し出も断ったし、そのままヴァイシャーリーに留まっているのも良くないと思い、すぐにマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)では、ラーマの子ウドゥラカが五百名の空中浮遊ができる弟子たちが飛び回るものを従えた者が、第四無色禅定たる非想非非想処を実現して有頂天にも至っているということなので、釈尊と同郷の五人の従者たちはマガダ国へと向かうことになった。
釈尊たちはマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)の近くのパーンダヴァ山に滞在しラージャグリハに托鉢に行っては戻るという暮らしをされていたが、街に托鉢に行けば、街の人々は梵天や帝釈天や毘沙門天が托鉢に来られたと見間違うようになり、マガダ国のビンビサーラ王にもその様子は伝わったので、自分の国では遂に梵天のような人物が托鉢するようになったのか、と大変嬉しく思い、家来に命じて彼らに供物を捧げて彼らが戻っていく後をつけていくようにと命じたところ、パーンダヴァ山に滞在していることが発覚した。ビンビサーラ王は是非お目にかかりたいと思いつつ、明け方早くにパーンダヴァ山へと向かいその修行者に丁重に礼拝して会って話をしているうちにこの修行者がカピラヴァストゥの王子であることが分かり、ビンビサーラ王は釈尊と同じ時に誕生していて同い年でもあったので、釈尊がその若さで国政も含めて全ての仕事を為し終えて、こうして同郷の従者を連れ修行者となっていることに驚嘆し卒倒し気絶してしまった。
ビンビサーラ王はすぐに気づくと釈尊に自分の国の持ち分の半分を差し上げるので、どうか一緒に王として統治してくれないか、とお願いをした。しかしながら釈尊は既に解脱へと向かうことを心に決めていたので丁重に断り、ラーマの子ウドゥラカが有漏の禅定を誇っていて衆生を解脱の境地に導くのではなく、輪廻の中での有頂天を目指して修行させているのを諌めるため、自分も彼に弟子入りして、釈尊のように解脱を目指した禅定を行うべきだということを教えるために、ウドゥラカを訪ねることとなった。ウドゥラカは釈尊に君は誰に師事しているのか、と聞いたところ、釈尊は自分には師匠がいないので師事したいとお願いし、弟子入りを許可され、非想非非想処の実現のやり方を教えていただいた。釈尊はすぐに非想非非想処を実現し、ウドゥラカにこれ以上の境地があるはずであるが、これ以上の境地を実現するためにはどうしたら良いのか、と質問した。ウドゥラカは、これ以上の境地などないし、あなたが取得した境地はこの世界の最高峰の斧であるので、一緒に弟子を育てようと提案して釈尊を師匠の座る座につかそうとしたのだが、釈尊は、私が目指しているのは輪廻からの解脱であり、死を超越しようとすることである。然るに無色界の天へと転生し、天界に生まれようとも、その業が尽きればいつかは死に、またこの輪廻へと生まれ来なければならない。非想非非想処を実現しても、死を超越するという根本的な解決となることはない。こうウドゥラカに語り、この場を去ろうと考えられ、五人の従者たちも一緒にガヤーへと去ってゆき、ガヤーのシールシャ山(象頭山)に滞在し、近くのナイランジャラー河のほとりのひっそりとした村へ托鉢にいくようになった。
この出家して三ヶ月の間、様々な行者に会い、彼らが様々な誤った考えによって誤った指導者の教育により誤った修行をしている人々を見てきた。彼らは決して解脱の境地を目指しているわけではない。今生で過去に積んできた業を浄化するために沐浴をしたり、苦行をしたり、禅定をしたりしているのが、それらの全ては所詮天界に生まれるためのものであり、すべての衆生が共通に抱えている問題である死を克服させるような類のものではない。この状況を変えるためには、自分が自ら誤った考えを持っている人たちが取り組んでいることが如何に無駄なことか、如何に間違った考えに捉われているのか、これを実際に自身でやって示さなければ、彼らが正しい道を求めようとはしないだろう、しかるにここで彼らよりも遥かに厳格な苦行をし、彼らよりも遥かに洗練された禅定をみせる必要がある。こう考えて釈尊は29歳の10月8日、ネーランジャラー河の辺りで苦行をはじめた。
苦行の最初は第四禅虚空辺満の禅定、すなわち呼吸が全て停止している状態を実現し、木の実を一つ食べて断食へと入り、全身は完全に青ざめて血色は無くなった。その後、米粒をひとつだけ食べて断食を続けると全身は青黒くなっていった。さらに米粒よりも小さい芥子粒をひとつだけを食べ断食も続け、さらに何も一切食べない状態を継続していくと、次第にどんどん全身は干からびてゆき、骨と皮と筋だけになっていき、そのまま6年間その状態を続けていったので、体はどす黒い状態になっていった。呼吸もせず食事も取らず決して禅定からもでない苦行を6年間も続け、もはや干からびた死体のような姿となっていたが、それでも覚りというものは得られるものではないことを目の当たりにした神々や人間たちは後にこの厳格な苦行をしている行者が全ての魔によって決してその禅定が脅かされることのないことを見て、将来弟子入りして、声聞・独覚・菩薩という三乗の所化となりたいというように心が変化していった。
釈尊は出家して3ヶ月間は遊行して外道の教主たちが達した境地に達してみせ、さらにそれをはるかに上回る苦行を6年間も実際にやってみせた。これにより三乗の所化の心を誤った考えから退くことができるよう異熟させることに成功したが、そのままブッダになったのでは、周囲のものたちが成仏するためにはそれほどの苦行が必要であると誤解してはいけないので、断食をやめて粗食を摂り、サトウキビの汁や豆を柔らかく煮込んだ断食明けの軽食を摂られ、血色を取り戻し、再び以前のように美しい姿で托鉢へと歩き始めた。
釈尊が苦行に入られたとき、村長の娘スジャータは八百名の婆羅門を供養して「この菩薩の苦行が成満した時に、食事を作って差し上げるので、この菩薩が成道しますように」と祈願を立てていたので、釈尊が苦行から出られた後、サカダワの十四日の朝、釈尊を自宅に招待して、千頭の牛から七回とった乳酪と牛乳で米をよく煮込んだ乳粥を作って釈尊に献上したので、釈尊はこの娘が過去に祈願した通り、いざ無上正等覚を現証せん、と心に決め、乳粥を食べ終わったのと同時に苦行をはじめる前までは完璧であった三十二相八十種好は完全に復活し、いざ覚りを開かんと菩提樹の元へと釈尊は進んで行かれることとなったのである。
以上が、釈尊が29歳の7月8日に出家し、3ヶ月間の遊行を経て、6年間の苦行を終え、36歳の4月14日の午前までの行状を示した逸話の要点である。
釈尊は最初外道の師について修行をして、その後、苦行をしたというのはどの仏伝にも紹介されていることであるが、近年流布している釈尊の伝記には、「釈尊は苦行をしたが、最終的にはそれが無駄であると気づいて中断した」というように捉えるものも多くある。しかしこれは伝統的な仏伝では決してそのようには表現されない。釈尊が間違った修行を六年間もした、という解釈は、釈尊を侮蔑するものであり、外道の師たちが説いている苦行や禅定によっては、天界へと転生することができるかもしれないが、決して輪廻から解脱をすることができない、ということを示すため、そして解脱をするということが如何に長期の刧を経て精進を積み重ねてできることなのか、ということを実際に示すために苦行をして見せられたと考えるのが伝統的な解釈である。
釈尊の苦行のエピソードは六波羅蜜の中の精進波羅蜜を教えるものである、とかつてケンスル・リンポチェはいつも語っておられた。仏になる、ということは簡単なことではなく、生死の輪廻から解脱するということは決して簡単なことではない。釈尊の不退転の決意が如何に固いものであり、その決意に基づく精進が如何に厳格なものであったのか、ということを私たちはどす黒く痩せて細り呼吸もせず食事もせず死体にも見間違えられたそのお姿から想像するべきなのである。ケンスル・リンポチェがいつもおっしゃっていたが、ブッダになるのには必ず努力が必要であり、どんなに立派な慈悲心を持っていようとも、どんなに勝れた知性を持っていようとも、努力することがなければ決して仏にはなれない。この大切なことをこのエピソードは教えてくれている。