2009.08.17

やさしい人間となるために

私たちは人間だからこそ、やさしい人間でありたい、他人を思いやる気持ちをもちたい、という行いをすることができます。

そして、このことは必ずよく理解しなくてはなりません。やさしい気持ちを人間がもち、そしてそれを実現したいという純潔な志をもつのなら、自分自身の幸福を達成することができるばかりではなく、周囲の人々にも利益をもたらすことができるのです。その結果、すべての人が心を平安に保てるようになるのでしょう。自分の人生を高潔で有意義なものにし、やさしさを実現しなくてはならないのです。

私たちが人間社会の一員となった時から、お互いはお互いに依存して生活しなくてはなりません。頼り合うことなしに、自分だけの利益を考えて過ごすなど不可能です。これが人間社会の本質でもあります。しかしながら、もしもお互いを喜ぶ合うことなく、嫌悪感をむき出しにして、何とか騙してやろうと思って生活すれば、私たちの人間社会は、悲しく、そして苦悩に満ちた家となってしまうのです。

今日「幸福」や「平和」と「公正」ということはさかんに口にだされています。ですがそれらの言葉が意味しているものが実際に必要となる時に、「正しさ」の本当価値に従った判断されているでしょうか。ただ単に経済力や権力だけで判断しているだけではないでしょうか。もしもそのような道を今後も歩まなければならないのでしたら、危険を察知する眼が有るのにも関わらず崖の下へ飛込もうと思っているのと同じことではないでしょうか。

私たちチベット人は苦難を背負うことになった原因には私たちが少数であるということがあります。しかし私たちの根本の非暴力の誓いを確固として守って闘い、たとえ如何なる逆境に出会ったとしても、恐れおののくことなく、正しい道を示すことが出来ればよいのではないでしょうか。私はいつもこのような祈りを捧げております。もちろん私ひとりが常にこうした祈りをしているだけでは充分ではありません。それには人々みんなが力を合わせていかなければなりません。あなた方、若い世代の人々もその責務のひとつを担っているのです。我々は人間であるからこそ、人間のこの社会が現在のこの状態よりも一層よくなるために創意工夫し努力する必要があるのです。そのためにはまず最初に自分自身がなすべきであり、自分自身が他の人をそのような道のりへと案内することができるようになったのならば、その後に次第に他の人々にそれを勧めてゆけばよいのです。それは必ず大きな意義のあることになるはずです。私がいつも思うことはこういったことにほかなりません。

最近ニューヨークで停電になり街の殆どが二十四時間の真っ暗になり、窃盗事件が多発するという事件がありました。その原因は、そのような時に盗みをしてしまった人々の心に、高潔な志や取り乱さない気持ちを守ることができなかったからだと思います。手錠をもった警官が目の前に居るのならば、社会秩序が守られるけれども、彼らが居なければ無秩序になってしまうなら、この地球には何らの希望もなくなってしまうでしょう。私たちチベット人と中国人とが今日まで公正な話し合いの機会をもつことが出来なかったのも、人間の手によって作り出された事態なのです。ですから、もしも今その状況に何らかの変化を与えることが出来るとすれば、それもまた人間の心がけによるのです。

正しい道を歩むこと、それを最初しようとすれば、もちろん苦労も有るでしょう。ですが、短い年月で出来ると焦ることなく、全人類にとって何らかの利益となることだ、とよく理解し、ひとりひろちが人生のそのすべてをかけて、努めなければなりません。純潔な行いや高潔な考え方をもってそれを実現したいという目的意識をもって歩むんでいくのなら、きっと何らかの成果を出すことができるはずでしょう。私はいつもそう考えておいます。

あなたたちは、いつもよき人間であり、常に純潔な行いをしなければならないと決意をしなくてはならないのです。これが私があなたたちに望むことです。

朝目が覚めたその瞬間から「純潔」という言葉を思い出し、その日できるだけ正直な行いをしようとして、純潔に過ごすさなければなりません。仏教を信じて、お経を唱えたりして功徳を積んでいるかどうかが大切なのではありません。「私は出来るだけ、高潔な行いをし、やさしき人間として、人生を全うしよう」という誓いを立て、毎日より一層よき人生を送ろうとすることができるのならば、それこそが「真の宗教」にほかならないのです。来世の存在を認める人であろうとなかろうと、こういったことが何らかの役に立つことであるだけは確かだと思います。

1977年8月1日・バンガロールにて
bKa’ slob phyogs bsdus. Dharamsala, 1986.

訳=ゲシェー・ロサン・チャンパ+野村正次郎


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