蒙昧という深い暗闇に包まれて
正しい道かどうかも分からない
殺し合うのか神や人の家畜となる
打たれ繋がれ痛みは止まらない
背筋を伸ばして二つの足でまっすぐ自由に立って歩けるということは実に幸せなことである。足で立ち上がって、手を使って好きなことができる。どちらに行けばいいのか、どちらに行った方が良いのかを考え、行くべき道とそうでない道を区別し、行くべき道をもとめて真っ直ぐ進んでいく。こんな二足歩行ができることは人間の特徴である。立って歩くこともままならず、どちらに進んでいいのか見当もつかず、ただひたすら屈んで進んでいくものたちを「傍生」と呼び、あるいは「畜生」とも呼び、あるいは私たちは彼らを「動物」とも呼んでいたりする。
畜生道に生まれることは、悪趣のなかでは最も苦しみの少ない生まれである。地獄の衆生のように絶えず身体的な苦痛が絶えないこともなく、餓鬼のように飢えと渇きに苦しんでいることもない。しかしながら生まれたその瞬間から強いものが弱いものを殺して食べなくては生きていけないし、食べ物を与えられながら神々や人類の家畜となって暮らさなければならないのであり、家畜となれば自分の意思は完全に奪われており、鞭で打たれたり、鎖で繋がれたりして、常に暴力を振われる危険にさらされながら、神々や人間に連れられて移動していかなければならない。神々や人間から愛玩動物として可愛がられている動物がいることも確かであるが、それは動物たちの一部に過ぎないのであって、愛玩動物として可愛がられていても、神々や人間のように自由がある訳でもない。
畜生道の衆生たちの住処は、陸上、水中、空中と三種あるが、その大多数は水中に住んでいると言われており、身体の形も小さな単細胞しかないものから、哺乳類のように複雑な形をしているものいるし、空中に住んでいる鳥たちのよう翼があって飛行することができるものや、空中に住んでいるが陸上に住んでいるような馬の姿をした神々の家畜である「風の馬」(ルンタ)にいたるまで様々な身体をもって生まれているが、どんな場所に生まれていようとも、生まれてきたその身体は、家畜となって保護されて暮らさない限り、自分の肉体や皮膚は他の動物たちにとっては食料であるので、他の動物にとっての食料あるいは毛皮や装飾品となるために、殺されて死んでしまわなければならない。これは水中の動物のうちの最も賢い動物であるナーガ(龍)たちであっても、ガルダ(金翅鳥・こんじちょう)の餌とならなければならないことからも理解することができるだろう。
動物の寿命は最長のものは、一劫もあると『倶舎論』では説かれているが、短いものは海中の微生物のように生まれて数時間もしないうちに死んでしまわなくてはならないものまでいるので一定ではないのであり、生まれてくる時も、神々が飼っている鳥のような化生のもの、微生物のような湿生のもの、哺乳類などの胎生のもの、我々にも馴染みの深い卵生のもの、と四つの生まれ方があり、このうち化生のものは生まれる時の苦しみはないが、湿生の場合には他者に苦しみを与えることはないが、生まれる苦しみはあり、胎生・卵生の場合には、生まれる際に母親にまず苦痛を与えなくてはならず、胎生の場合には生まれくる苦しみが一度だけしか経験しなくていいが、卵生の場合には二度経験しなくてはならない。人間と畜生には、化生・湿生・胎生・卵生の四つのタイプの生まれ方があることは共通しているし、たとえば桃太郎のような者は卵生の人間ということになるし、釈尊が人間として生まれてくる時には、衆生を導くために敢えて子宮から生まれてこられたと言われている。
このように畜生道は様々な身体をもっており、寿命も様々であり、生まれてくる生まれ方も様々で有るが、どんな衆生に生まれる場合にも、これは様々に異なっているが、畜生道からみれば、人類や神々のような知性をもっていないことは明らかであり、畜生道の衆生たちで、前世の記憶が有る場合には、地獄や餓鬼よりはましな肉体で生まれてくることが出来たことだけは確かであるが、圧倒的に人間よりは知性が劣っていて、その知性が劣っているからこそ、不自由を享受しなければならず、不自由であるだけではなく、他の動物を殺さなければ生きていけない食物連鎖に暮らしているのであり、食料のために他の衆生を殺さなくてよくても、神々や人間の家畜として飼育され拘束されて暮らさなければならない運命から逃れられることは決してできないので、畜生道は常に苦しみから逃れられることもできないのである。
仏典のことばとして有名なものに「自分の身体に例えてみて、他者に危害を与えてはいけない」とあるし、ダライ・ラマ法王も『菩提道次第広論』の伝授をなさる時にいつも説かれているが、これらの畜生道などの悪趣の苦しみを考える時に重要なのは、私たちは動物たちというものを自分たちとは違うものとして向こう側にいるものとして考えて、こちら側から可哀想だなと思うのではなく、私たちがいま畜生道を生きていることを想像し、それがどんなに辛いことなのか、ということを想像することが大切なことなので有る。私たちは動物たちを向こう側に想像して、彼らはこうこうこうで辛そうだな、と思っている限り、それはあくまでも他人事であり、自分ごとではないので、その想像をやめた時点で苦しみから解放されることはできるが、実際に畜生道に生まれている場合には、その苦しみは死ぬまで続く。弱肉強食の運命にある畜生道に生まれる限り、他の衆生に苦しみを与えない、というこの最も基本的な善業すら積むことができない。畜生道の特徴は、本偈にも説かれるように人間に比べると圧倒的に知性が劣っており、同じ畜生類のなかまたちを食べて生活しなくてはならない悲しくてやるせない生を生きなくてはならないからなのである。そしてそのやるせない気持ちと苦しみはその立場になってみたことを想像しなければ、なかなか簡単に想像できるものでもない。
たとえば私たちはこれから一時間後に死ぬとしよう。
気がついたら水のなかにいる。この液体が水なのか分かるのは、飲んだら喉の渇きが癒えるからである。ここには渇きや飢えもなく落ち着いている。口から入ってくるものも血や膿ではなく、ちゃんと飲むことも食べることもできる。しかしこの身体はどんな形なのか、意識も朦朧としているので、具体的には分からない。身体は周囲の水圧で圧迫され、押し潰されそうだが、何も抵抗もできないので、為す術もなくただ漂流するだけである。そしてこのまま死んでゆく。一生で知り得ることは生まれてくるのも苦しみであり、やはり死ぬのも苦しい。そんな経験しかないのが水中の微生物である。
次に生まれると魚である。常に泳ぎまわって他の魚を食べて生きていくしかない。陸地を見ることもないし、そこがどんなところかもわからない。いつものように食べたもののなかに、冷たく尖ったものがある。釣り針というものらしいが、それが唇を貫通する。こんなものは海のなかにはなかったので驚いているうちに引っ張られる。引っ張られないように抵抗しても、唇に刺さっているので逃げられない。この釣り針繋がれている糸が手繰り寄せられて、唇からは血飛沫が流れ出す。いままで泳いでいた水が自分の血で赤く染まってゆく。海から外にだされると明るい閃光が眼に突き刺さる。水中に鈍い音しか聞いたことがなかったので、周囲に響いている爆音で頭が割れて砕けそうになる。これが音というもののようである。水の外に出たら突然息苦しくなるが、今度は身体が切り刻まれる。巨大な刃物が肉体を切り裂き、内臓から血飛沫が宙を舞う。生まれてはじめてみる地上の景色、それは自分の肉体から血飛沫が舞いながら死んでいく景色なのである。
今度は狼に生まれてきた。草原を歩いていると他の動物たちは逃げていく。これはきっと我々が他の動物を獲って食べるからである。強い者、賢い者が弱い者、間抜けな者を食べる。これが地上の掟である。我々は賢く強い生き物である。弱いが賢いカモシカたちのように草しか食べない生き物ではない。我々は誰にも飼い慣らされたりはしない。何故なら「狼」であるからである。最小限の群れだけで慎重に暮らし、軟弱で頭の悪い草食動物を食べて暮らす。しかし奴らは瞬発力があり、逃げ足も速いので狩りに失敗してしまえば飢えを凌いで暮らさなくてはならない。仲間には昔から人間に飼われている「犬」と呼ばれるものたちがいる。奴らは所詮人間に迎合しただけである。食べ物を与えてもらう代償に自由を失い、紐で繋がれて尻尾を振って暮らしている。犬の現在は哀れなもので、本来狩をして食べる羊や山羊などの番犬として働かなければならない。せっかくの知性と力を売り払い、人間の軍門に下った奴らは常に発情し節操がない。繁殖にも狩りにもそれなりの時期というのがあるのが賢く強い動物の生きるスタイルである。しかし人間に比べると狼たちの賢さなど比較になるものではない。人間は我々を殺すためにさまざまな武器を開発し、秘かに家畜を食べようと近づこうとしてもなかなか近づけないようにしている。だから最近狼は減っていくのであり、人間たちは我々狼が絶滅しつつあることを心配しているふりをしているが、人間の軍門に降るわけにはいかない。我々肉食動物は、獲物を狩って殺し合い生きていく孤高の生き方をするしかない。それができなければ神々や人間の奴隷として鞭打たれ、繋がれて、檻の中に囚われ暮らす以外に方法はないからである。
人間たちは我々のことを酷い呼び名で呼んでいる。畜生というのは家畜であり、これは人間の所有物ということである。生きて感情を持っているのに、動物という。好きでやっているわけではないが、屈んで動くので傍生である。その他には獣物とか獣とか野獣とかいろいろあるが、あまりいい名前でもない。人間は二本足で立って、私たちを殺すための武器を開発する。私たちの皮膚を引き剥がすために殺し、売買して食料を得ている。狼よりもはるかに狡猾で、私たちを殺したら自慢している。地球上の肉食動物のなかでも強く賢い者たちは絶滅しつつあるのは、人間に大量に殺されるからであり、食料を奪われているからであり、狼に生まれている限り、我々はそれでも人間に飼われて暮らすことを拒絶している。何故ならば人間は凶暴であり、残酷であり、自分勝手であるからである。人間社会でも奴隷として一生拘束されている状態を考えたらそれは分かるかもしれない。飼育されて自由を奪われた一生など決していいものではない。それがいいと思っているのは、飼い主や奴隷の持ち主くらいであり、その考え方は極めて身勝手なものである。飼育されているペットに生まれたからといってそれほどいいものでもない。身勝手な飼い主の都合に振り回され、どうでもいい人間の悩みごとなどを聞かないといけない。他所に行って暮らすことができないので、仕方なくその飼い主のところで暮らしているが、彼らが人間と同じような扱いをしてくれることなど極めて稀なことである。もちろんいい飼い主からいい待遇を受けることがあっても、全体的にいい待遇を受けているわけではない。別の人間からは邪魔にされているのであり、病気になって苦しんで飼い主を見失ってふらふらしていると殺処分というものになるか、車に轢かれて生ゴミとして捨てられるだけである。ほとんどの人間たちは我々動物が人間に生まれることを願ってくれることもないし、食べ物をくれるときも人間同士でご馳走をするように行儀良く丁寧にくれることもない。我々動物がこんな苦しみをもっていても、人間に訴えても仕方がないのであり、訴える手段もないのが畜生道の悲劇である。
このように不平不満を人間の口を代弁して述べたからといってどうにかなるものではない。畜生道の我々の苦しみを何とかしてくれようと思っているのは、ただすべての衆生の苦しみを何とかしてくれようとしてくれているのは、この世間には仏たちそして菩薩たちしかいないのである。このような苦しみから逃れることを可能とするのは、ただ一切衆生に対する慈愛の心と、その心を常にもとうとする強い意志と決意しかない。畜生道のような悪趣に生まれることから解放してくれるのは、仏たち、そして彼らの非暴力の教え、そしてそれを実践しようとしている群れ、という仏法僧しかないことは、畜生道に落ちてみれば実感できるだろう。そしてここに生まれてこなくても、人間であればその知性と想像力を使って、ここに我々のような畜生道として生きることがどんなに辛いことなのか、想像することができるはずであるし、こうならないために善業を積み、正しい道と正しくない道を分けることができ、そして食事のために他の衆生を殺さなくてもいい境涯にある訳である。我々畜生道になくて、人類にあるもの、それはほかの衆生を思いやり、ほかの衆生にやさしくしてあげて、我々のような畜生道の苦しみを少しでも減らす、という営みで、ふたたび人間に生まれるための生を過ごすことのできる自由とそれを実現できる環境である。彼ら人間はそんな自由と権利を生まれながらにしてもっている。実にうらやましい限りなのである。いま私たちは畜生道に生まれてきたが、最低でも次回はほかの仲間を殺さなくていいような草食動物や釈尊の教えが説かれる現場に暮らすことができる鹿に生まれるか、殺生をしない僧侶たちが暮らしている僧院の周辺の動物に生まれたい。しかし出来れば人間に生まれて、こんな暮らしをやめて、生まれながらにして善を行えるような暮らしをしたい、そんなことを切に願うばかりである。畜生道に生まれるのはもうこりごりなのである。これが畜生道の衆生たちの心の叫びにほかならない。人間のように言葉を使うことはできない。しかしこの叫びがどうかすこし賢い知性のある人間たちにも届くことを切に願ってやまない。
私たちは孤独に生きている狼の声を聞くことができるだろうか。彼らの叫びを受け止めることができるだろうか。私たち人間は獣ではない。言葉を介してほかの生物を慈しむことができるはずである。