雑染と清浄の法への出処進退へと通暁して
群衆の中心にいる賢者とならんと思うなら
いまの楽しく食べて飲んで眠ることだけに
執われたこの快適な暮らしでは実現しない
苦しくも辛い生活に耐えなくてはならない いざ
仏教を学ぶぼうとする、ということは、いまのこの生涯だけではなく、来世もそしてその来世も常に仏教とともにあろうとし、如来たちの教えだけを灯火として、自分の心が染まってしまっている煩悩を少しずつ克服し、できるだけ浄らかな心をもつようにし、すべての生きとしいけるものたちの気持ちと考えが如実に分かるようになり、より幸せになるための方法をどんな時にでも間違うことなく正しく道を示すことができる仏の境地に至ろうとするということである。そこに至るまでの道程は長く、三阿僧祇劫という途轍もなく長い道のりを歩んでいかなければならず、その途上ではさまざまな試練や困難が待ち構えているかも知れないが、私たちは暗闇をひとりで闇雲に進んで行っているのではないのであり、どんなことがあろうとも、私たちはより幸福に満ちた、より明るく開けた光明へと向かっていっていることだけは確かなのである。
すべての生きとし生けるものが幸せになり、すべての生きとしいけるものたちが決して苦しむことのないようにする、ということは簡単なことではない。私たちひとりひとりがきちんとした暮らしをしようとし、普通に生きようとすることだけでも、さまざまな試練がある。何事もうまくいかないことも頻繁にあるだろうし、時には混乱の時代を生きなければならないこともある。社会の情勢はさまざまに変わっていくものであるし、雨が降って崖が崩れて来て家が潰れてしまったり、雪が積もって凍えそうな日もあれば、日差しが強く熱く外を歩けないこともある。食事をすることもままならないこともあるし、気がかりなことが多く、深く安心して静かに眠ることすらできないこともある。静かに眠ることができたと思っていても、悪夢に魘されて金縛りになって目覚めることもあるだろう。どんな人でも日常生活を無事に平穏に過ごしたいと思っていても、さまざまな不穏な出来事というものは自然現象のように起こるものであり、他人に接してやさしくしていても、相手に裏切られたり、利用されたり、こちら側の思いなどまったく伝わっていなくて落胆しそうになることもある。
こんなことは日常茶飯事であると知ってはいるけれども、問題に直面すると、その問題は思ったよりも深刻であり、思ったよりも複雑な事情が絡まっており、思った以上に解決するのに時間がかかってしまうものであり、私たちはそのようなことに翻弄されて、本来すべきであったこと、本来自分たちがしたかったことというのを見失ってしまうこともよくあるのである。しかしこれらのことは、すべて自分たちが無限の過去世から為してきた悪業の異熟の結果にすぎないのであり、誰かのせいにすることはできない。自分自身が経験する困難には原因があり、その原因をつくったのは自分たちである。このような思いを二度としないように、善業を積んでいこうとすること以外に解決策はない。
常にすべての衆生の苦しみを取り除くために仏の境地を目指して仏教を学んでいくというのは、すべての苦しみを取り除こうとする菩提心という絶対的な善という馬に乗っているようようなものだとシャーンティデーヴァも説いている。この菩提心という馬に乗って、すこしずつでも他者の幸せを実現するという善業を営もうとして、すこしずつでも幸せから幸せへと駆け抜けていくこと以上によいことなどないのであり、このように私たちが在ろうとしているのなら、この菩提心の馬に乗って通り過ぎていく世界とは、馬から降りて、踏みとどまるべき場所ではない。人間に生まれるという得難いこの機会を得て、すこしでも他の衆生に対してやさしくでき、他の衆生のために少しでも役立てる生を営むことができること以上の幸せなど、この世にもないのである。自分たちがした、ほんのちいさな善業でも相手にとっては大きなものであり、私たちはいまだ菩薩ではないにも関わらず、彼らの心に菩薩であるかのように記憶されていく。決して見返りを求めることなく、すべての衆生に対して慈悲深く接したいと思い続けて暮らす以上に、素晴らしい暮らし方などないのである。
私たちは時代や状況に応じて景色のように変わっている他者の不条理や不正義を糾弾し、絶望や不平不満をこの世に吐き捨てるように排泄していくべきなのか、あるいは決して変わることのない、時代や状況に決して流されることのない普遍的な慈悲と愛の歌をうたうべきなのか。この問いの答えが後者であることは誰にでもわかるであろう。誰かがこんな仕打ちをしたので、その者を懲らしめてやりたい、その者が死ねばいい、そんなことばかり思っていったい何になるのだろうか。
私たちはそんな不平や不満や不条理のことばはもう聞き飽きるほど聞いてきた。私たちが耳を傾けるべき、口から発すべきもの、そして心に抱くべきものとはそのようなものではない。私たちが耳を傾けるべきもものは、衆生の悲痛の叫びであり、その問題を解決するための如来たちの声である。私たちが口から発すべきものは、移ろいやすい世間の知識ではなく、決して変わらぬ普遍的で絶対的な仏の慈悲と智慧のことばである。「くちびるに歌をもて、心に太陽をもて。」ともいうように、賢者への道のりは絶対的に善であり、それは自分自身で心に闇をつくるのではなく、如来の光明で満ち溢れさえ、周りのすべての生物にその光明が溢れ出し、常楽の輝きを放つことであると思われる。本偈はこの常楽の輝きを自ら曇らさないように努力を惜しんではならないということを説いている。