乱れた髪で覆われて喉も常に乾いている
微かに見えた水を飲もうと向かってゆく
剣や槍をもった衛兵たちに阻まれている
辿り着いた水も血膿のようで飲めやしない
口は針先ほどで喉には何かが詰まっている
飲みことも食べることも何もできやしない
食べて飲んでもすぐに燃えて体内で焦げていく
自分の糞尿か自分の肉を刻んで食べるしかない
餓鬼と呼ばれる生物は、如何なる欲求も決して叶うことがない絶望の淵を彷徨っているものたちのことであり、私たちが幽霊・悪霊・怨霊・鬼・魔・化物・妖怪と神々や動物と区別して我々に危害を与える特殊な存在とみなしている衆生のことを指している。彼らにとって希望や欲望というのは決して叶わぬものであり、何かを飲み食いするという生物が自分の身体を維持するために必要最低限と思われるような本能的欲求すら満たされることもないにも関わらず、餓死して死んでしまうことすらできず、絶望の淵を彷徨い続けなければならない。これが餓鬼の苦しみの主要なものである。
前世の業によって身体の大小には差があるが、自分の骨や皮はすべて乾燥しきっており、ひび割れも多く、毛髪は伸び放題に伸び、絡み合って不潔な髪が自分の顔を覆って邪魔している。常に喉は渇いており、水のようなものが微かに見えてくる。そのままじっとしていて死ねるならそのままでもよいが、餓鬼の身体は地獄の衆生のように堅固で息絶えることすらもできないので、乾燥した大地を彷徨いながら水を求めて、泉や池の方へとふらふらと向かっていくしかない。やっとの思いで力を振り絞ってそこに辿りついていても、荒々しい衛兵たちが恐ろしい剣や槍をもって待ち構え、恐る恐る近寄っても罵声を浴びさせられそのまま戻れと言われてしまう。こんなに痩せ細った力もでないこの体で、あんな屈強な衛兵たちと戦うことなどできはしない。しかしあまりにも喉が渇いているので、隙を見計らってその水へと近づいていくのだが、近づいてみるとそこには飲めそうな水などはなく、どろどろとした腐った血や膿の液体があるだけである。こんなものは飲めやしない。この渇きが癒えることもない。そこにあるのは飲料水などではなく、ただ血の色をした絶望の液体でしかない。
そもそも自分の口は針の先ほどくらいの大きさしかなく窄んでいる。喉には何かが詰まっていて食べたり飲んだりはできそうにもない。喉の渇きだけならまだしも、何も入っていないのに山のように膨れ上がった腹は減って仕方がない。こんな口や喉では何も食べることなどできないし、運良く何かを口にし、飲み込んでみても、喉を通ると胃や腸のなかですべて燃えてしまい、焦げて炭や灰のようになり栄養はもちろんのこと、この激しい空腹感を満たしてくれるようなものでもない。この餓鬼の世界で飲めるもの、食べられるものなどそのようなものでしかなく、何か食べたり飲んだりできるものとして思いつくのは、自分が垂れ流している糞尿くらいしか思いもつかない。あるいはまたこの干からびて干し肉のような骨と皮と筋の一部にある自分の肉を刃物でえぐり出し、それを自分で少しずつ食べるしかない。この永遠に続く飢えや渇きにどんなに耐えようとも、この苦しみに決して慣れることもない。飢えと渇きで意識は朦朧として、ふらふらと力なくただ絶望の淵を彷徨い続けるしかないのであり、畜生道のようにお互いに殺し合って食べ合う気力も体力もないのである。
餓鬼たちの大部分は、荒廃した地底の餓鬼の住処に住んでいるが、地獄の獄卒として働いているものから、背後霊や怨霊として、人間界や天界で悪業を積もうとしている衆生を邪魔する活動をしてほかの場所に住んでいるものも大勢いる。餓鬼に転生する者は、その業の強さから胎生の者も僅かにいるが、大部分は地獄の衆生と同じように化生であり、餓鬼の一日は人間の時間に換算すると一ヶ月に相当する。そんな餓鬼の寿命は最低でも五百歳で、人間の寿命に換算すると最低でも五〇〇万年は生きなければならない。長生きの餓鬼に生まれた場合には、人間の時間に換算すると五千万年や一億年生き続けなければならないほど堅固な命根を有している。
たとえどんなにつらい飢えと渇きを味わっていようとも不死身といっていいほど長生きするので餓死することもできず、不死身であるかのような堅固なその身体は常に乾燥状態にあり、微細な気体で生成されたガス状の身体をもっているので、通常のほかの衆生たちの粗い感官では、ガス状であるのでそこに存在していても、感官が接触することもなく、通り抜けてしまうので、通常は餓鬼の存在は視認不可能であり、微細な物質を捉える能力である神通力を有する者以外にはその存在を知られることもない。このことからも人間たちからは鬼や幽霊と呼ばれ、人間には恐怖を与えている。その存在が確認できるのは、眼には見えないものが不思議な悪業を働いている場合に限定されている。たとえば歴史上の人物でもう何百年も昔に亡くなった落武者に取り憑いて暮らしていた餓鬼が、その宿主である落武者が死に転生していなくなった後にも自分はその落武者の怨霊であると名乗って活動することもあるのも、このような長寿でかつ微細で視認できない身体をもっているから可能であるのであり、かつての宿主と長期間共に暮らし、その宿主の人生そのものを記憶しているので、他のものたちからは、まさにその落武者が死後亡霊になっていまも祟っていると思われるのである。
悪霊や怨霊のようにほかの衆生に危害を加えること、つまり悪業を行いつづけること、これが餓鬼たちの主要な活動である。餓鬼たちは決して常に他者に危害を加えたいと思っているわけではないが、何をやっても結果的にはほかの衆生たちにとっては不快な印象しか持たれないのであり、そのような悪業を行いながら、自らの運命を悲しんで泣いていようとも、他の衆生からは悪さをしてそれが成功したことで楽しそうに嘲笑っているとしか思えないようなことしかできない。餓鬼たちは飢えや渇きという強烈な苦痛を経験しながらも、その活動は悪業しかできないのであり、自然災害を企てて自然災害を起こして、地獄の衆生たちを折檻するなどといった活動しかできない、ということも餓鬼という衆生の悲劇的な運命のひとつとして数えることができるだろう。
餓鬼という衆生とその世界を作り出している最大の要因となるのは、この世間に蔓延している貪欲にほかならない。地獄に生まれる要因が瞋恚による暴力行為であり、畜生に生まれる要因が無知であるように、貪瞋痴の煩悩の三毒に応じた悪業の結果として三悪趣はある。餓鬼に転生する要因たる貪欲は直接他者に危害を与える暴力行為へとつながる瞋恚とは異なっているが、強烈な自己愛、貪欲は強烈な瞋恚の原因ともなる恐れがあり、たとえ他者に危害を与えてはいなくても、他者を蔑視し、自己中心的なあり方に固執させ、憐れむべき他者のことを少しも考慮しようとはせず、自分は充分なほど享受しているにも関わらず、他者と分かち合うこと、他者へ与えようとすることをしない。これが貪欲のなかでも慳貪と呼ばれる感情であり、餓鬼道へと転生するための主要な貪欲は慳貪という物惜しみをして、他者に施しをしようとしない感情にほかならないのである。
慳貪は自分が享受した所有物、地位や名誉、既得権、そして自分の欲望とその目的に強く固執する。それは他者に対し自分が享受しているものを与えようとする感情である布施の真逆の感情であり、布施という善業の基本を行うための最大の障害となっている。慳貪は、貪欲の一種で、より多くのもの、より良質のものを望み、同時にすでに所有して享受しているものだけでは決して満足できない。少欲知足と逆の方向にある感情であり、すこしでも享受しているものが減らないよう強く執着している感情であると、『阿毘達磨集論』では説明する。この慳貪は、欲望を増大させ、満足することを忘れさえ、争いごとの元になり、執着の対象が他者によってわずかでも減少し、損失を被ったり、奪われたりすることを憎んでいる。この自己の既得財産が減少することへの嫌悪感や憎悪が瞋恚を増大させ、他者を害する行為にまで発展し地獄へと転生する。他者に対する害心が芽生えず、暴力行為にまでは及ばない場合でも、自己の所有物に強く執着し、しかも現状には満足できていないことから、それが減少することを拒み、他者に分け与えようとする気持ちを失ってしまうのである。そしてこれが餓鬼へと転生する最大の原因であり、餓鬼世界をつくりだしている私たちの業である。
餓鬼の苦しみは、地獄の苦しみのように直接的に身体で経験する苦痛そのものではない。しかし飢えや渇きといった誰からも助けてもらえることもなく、与えてもらえることもなく、何かを自分が求めようとしても決して満足に得ることができない、ということは、孤立無援の絶望そのものである。餓鬼たちは生まれたその瞬間から、誰からも見向きもされず、誰からも評価を受けることもなく、常に亡霊や悪霊として侮蔑され、罵倒され、退治される対象でしかない。本当は食べるものも飲むものさえも激痛を耐え忍んで暮らさざるを得ないにも関わらず、この苦しみは誰にも伝わらない。すこしでも他者のやさしさという見返りを期待して、他者にはたらきかけようとしたとしても、決して他者が喜ぶようなことも出来ないし、同情をもとめてうめき声を挙げたとしても、自分たちの苦しみとこの深刻な問題を訴えかける相手も見渡す限りのどこにも存在しない。自分たちの姿はガス状で、ほかの衆生からは完全に無視され、偶々自分たちの存在を感じ声がけしてくれる者がいても、悪巧みをしている魔に取り憑かれた霊媒師であったり、他者に呪いをかけようとしている呪術師であったり、横暴極まりない権力を振おうとしている最悪の権力者たちくらいしか、相手にもしてくれないし、仲間にもなってくれないのである。ほかの殆どの衆生たちは自分たちの容姿を嫌い、化物として眼を背けている。罵倒の声を浴びさせられながら、どんなに飢えて喉が渇いても、ここは絶望の淵そのものである。かつて他者を蔑ろにし、他者に何かを分け与えようとすることを自己愛によって拒絶してきた、その業が尽きるまで死ぬこともできず、絶望のなかを彷徨いながら続けなければならないのである。
絶望の淵を彷徨っている餓鬼たちが一縷の希望の光を託することができる存在はいる。それは如来たちや菩薩たち、そして仏教の修行者たちである。彼らはこんな絶望的な暮らしをしている者たちのことまでも哀れんでくれ、自分たちが苦しむことないように、この苦しみがはやく終息するようにと常に祈ってくれている。餓鬼の境涯では、決して飲むことや食べることはできず、ただ匂いをかぐだけしかできないが、彼らは地底の絶望の淵にいる餓鬼となった私たちのために常に祈りを捧げてくれ、観想によって激痛を癒す甘露の雨を降らせてくれ、常に食事の際には神仏に供物を捧げた後に、こんな悲惨な餓鬼たちのためにも、少しだけその食料を分け与えてくれ、「施餓鬼」と呼ばれる施しをし餓鬼となったものたちに対しても恵みを与えてくれようとしている。
釈尊や菩薩たちはもちろんのこと、龍樹や無着・世親といった偉大なる修行者たちは常にこの餓鬼の苦しみを毎日修行者は思い起こすべきであると、見放された餓鬼のことまで気遣ってくれるやさしいことばを残してくれている。仏教論理学の大成者と呼ばれているダルマキールティも、餓鬼となった私たちが見えないからといって、決して存在しないと断定してはならない、ということ、論理的に弟子たちに解説してくれている。彼らの影響をいまも深く受けているチベットの子供たちは、何も分かってはいないけれども、まだ小さな子供の時から、親に食事の一部を餓鬼に分け与えることを親から躾けられ習って知っている。力なくふらふらと飢えと渇きと絶望の淵を彷徨っている餓鬼の世界にも差し込んでくる唯一の希望の光、それは観音菩薩の大悲心であったり、弥勒菩薩の大慈心であったりするが、決して完全に見放さないという菩薩たちの祈りの光明は、この餓鬼世界にまで届いていることは確かである。
餓鬼に生まれたものたちにも差し込んでくる一縷の光明は、菩薩たちの祈りである。彼らが祈る時、私たち餓鬼は彼らによっていまのこの姿ではなく、彼ら人間と同じ姿でその祈りの場にいる、と観想され、彼らと一緒に次のような菩薩の祈りを捧げることとなる。
「私は三宝に帰依します。すべての罪業を各々懺悔します。衆生の善を随喜して、仏の覚りを心に刻みます。仏法僧を私たちは仏となるまで救いの拠り所とします。自分たちと他者たちのすべての望む目的を叶えるため、菩提心を起こします。菩提心が起こってからは、すべての衆生を私の客人として迎えて、最勝なる菩提行を享受しようとします。衆生たちに役立てるように、どうか成仏せんことを。」
この菩薩たちの祈りの言葉は、たとえ自己愛から他者に富を分け与えようとしないで餓鬼道に落ちてしまっていても、眼を背けられて、化物や妖怪や鬼という名前で忌み嫌われていても、彼らが決して餓鬼を見捨てることなく、彼らの「客人」として迎えてくれるという強靭な慈悲の発露にほかならない。これは悪業の結果、迷い込んでしまった餓鬼道を全うし、飢えや渇きの苦しみに耐えても、次からは如意宝珠のような人身を得て、いまはできない善業に邁進すれば、もう二度とこのような苦しみを味わうことがない、という希望を与えてくれるものである。
釈尊がはじめに菩提心を起こしたのは、地獄におられた時であるといわれているように、如来たちや菩薩たちも何度もこの餓鬼道に落ちた経験があり、それを乗り越えていまは如来や菩薩となっている。貪欲や慳貪によって苦しんでいるこの餓鬼道にも必ず終わりがある。幸いにしていま餓鬼道に落ちていたり、餓鬼道に落ちてしまうような煩悩をもって生きていても、この心と運命には改善の余地が必ずあり、すべての苦しみは煩悩と業によってできているからこそ、この煩悩と業を克服しようとするのならば、必ずすべての煩悩が止滅した寂静の境地を実現することができるのである。餓鬼の境涯は逆縁であることには間違いないが、逆縁は必ず順縁へと変えることができる。
弥勒仏に対する悲痛の告白にある本偈のツォンカパの餓鬼道に関するこの描写は、私たちが死に餓鬼道に陥ってしまう原因となる自己愛や執着を捨て、その境涯にあろうとも、常に弥勒仏の慈愛の光明が差し込んでいることを表現しているものと思われる。そしてこのことは、私たちが毎日餓鬼の存在を正しく意識し、他者へ思いやりをもち、他者へ分け与えようとする気持ちが如何に大切なものなのか、ということを教えてくれている。餓鬼や化け物や悪霊いいい必要以上に忌み嫌い、恐れる必要など決してなく、それは慈愛の対象であり、私たちはこの鬼や化け物や悪霊に対して慈悲心をもち、菩薩たちと同じように大切な客人として迎え入れる心意気をもつべきだろう。私たちの心意気が如来や菩薩たちのように餓鬼たちにも一縷の希望を与えられるかどうか、それは私たちが何かを飲んだり、何かを食べている時、どれだけ彼らを意識できているか、という実に身近なことからはじまっている。