知には量と非量の二つがある
量にも現量・比量の二つがある
感官・意・自己認証・瑜伽とで
現量は四種であると主張する
比量は事実・言明・確信の三種ある
無理解と誤解と疑念という
非量の知にも三つほどある
知とは「対象を明らかにし知るもの」と定義され、闇のなかで燈明が静かに発光している時、そこに在るものが照らされ、姿が露らかになるように、知ろうとする対象を明らかにし、それを感じて受け取っていくもの、これが精神や知と呼ばれるものである。知というものを考える時に重要なのは、それは主体なのであり、主体的にはたらいているというこのことを知ることである。特にインド・チベットの仏教における認識論を考える上ではこのことは非常に大切なことのひとつである。
私たちが何かを感じ、何かを考えるのは、自分たちが主体的に行なっていることなのであり、私たちは何かを感じることを強要されて、仕向けられているのではない。もしも対象や世界というのものが、私たちとは無関係に事前に存在し、私たちが存在するだけで、その対象を何の意思や主体的な働きかけをしなくても、私たちが何かを見聞しているのだとすれば、私たちが自然に受け取っているすべての出来事を私たちに感じさせている目に見えない第三者が存在していなければいけないという話になるだろう。それを全知全能の神であるとするのならば、何故私たちはこんなにも悲劇的な出来事を目撃し、理不尽で狂気に満ちた世界に生きなければならないことを嘆き苦しみながら、神の与えた試練に対峙して暮らさなければならない。神が創造した世界は我々とは無関係に我々の存在よりも先に存在し、神の仕業により、私たちの知や感覚のそのすべてが与えられてあるからである。
このような全知全能の創造者である唯一神の存在を認めず、私たちや私たちの見ているこの世界は無限の過去から継続しているものであり、業によってどのような境地に生まれ、どのような世界と対峙して生きているのか、ということが決定されると考える仏教では、私たちの認識は神によって与えられた受動的なものではなく、こちら側が能動的、主体的な働きをすること、つまり業というはたらきかけをすることによって、私たちの感覚や、そしてその感覚によって経験するこの世界というものは左右されると考えるのである。知そのものが対象へとはたらきかけることで感取しようとしているもの、それが世界なのであり、私たちの知が主体的にはたらきかけること、つまりある業を為すことによって世界は存在し、その世界は既存のもととしてこちら側に重圧を与えるものではなく、こちら側の主体性によって私たちの知が作り出したものにほかならない。この知と世界の関わりの方向性は、インドの思想全体に共通するものであり、この環境世界のすべては私たちの意思である業によって形成されているという命題もまた、この知の能動的な構造を前提としているものである。
知が能動的に対象に向かっていく場合、知自身にとって現象として現れているものが、対象それ自身の存在状態に対応しているのかどうか、実際に知がその対象を把握する時、対象の実像通りに把握しているのか、あるいは知が何らかの要因によって欺かれたまま、その対象を把握しているのか、どうかということによって正しい知なのかそうでないのか、ということに分類することができる。欺かれていない正しい知のことを「量」といい、欺かれている正しくない知のことを「非量」という。
正しい知である量には、現量・比量の二種類がある。何故ならば、正しい知が対象としようとしているもの時に、その対象には二種類のものがあるからである。知が何らかの他の思考を媒介とすることなく、知ろうとしている対象が直接その知に現象として現れる知覚可能な場合が「現量」と呼ばれる知覚である。一方、知ろうとする対象が、その知に現象としては現れてはいないけれども、その現象の存在を確認できる正しい根拠が知に現れて、その論拠に対する知から知ろうとしている対象を正しい思考によって推理する場合が「比量」と呼ばれる推理である。この現量・比量の両方は正しい知としてすべての正しい命題を構成するための、公準となるものであり、それによって何らかのものを推し量ることができる基準となることから、計量をするための手段となり、私たちはその知を信頼にたり得るものとすることができるので、これらは「量」という言葉で表現されるのである。
現量には、青などの物質を知覚である眼識を代表に、耳識・鼻識・舌識・身識といった身体の知覚器官に依存して生じる感官知である現量、それらの感官知が収斂しその知覚が途絶える瞬間に起こる意識である意知覚、青などの眼識の知覚が起こっている時に、その知覚を対象を認識している側面と知自身との経験のみの側面との二つに分け、その経験だけの働きをし、その経験をもとに青などの対象の記憶ではなく、青を認識したという記憶を形成するための要素として抽出した自己認証、無常・空・無我などの通常の感官知では知覚できないものを、禅定を修習することによって知覚可能なものとして、青を見つめている視覚のように知覚することができるような状態になっている時の知覚を瑜伽現量という。自己認証という知を別途抽出してその存在を承認するのは、経量部・唯識派の学説であり、毘婆沙師や中観派はそのような知を別途想定する必要がないとするが、他の感官現量・意現量・瑜伽現量についてはすべての仏教の学説で現量として認められているものであり、声聞・独覚・菩薩聖者が真実を現観している知や如来の一切相智などは瑜伽現量であるが、修道の聖者が三昧から起き上がって日常的な活動をしている時の後得清浄世間智などは瑜伽現量ではないので、瑜伽行者の知覚がすべて瑜伽現量ということではないし、瑜伽とはそもそも真実へと結びついている、安定的に均質に明瞭に知覚している知のことを「瑜伽」「ヨーガ」と呼んでいるので、街のヨーガ教室や座禅会に参加している一般の人たちがそれらを体験している時に非日常的な経験をしているものも瑜伽現量ではなく、それらはすべて正しくない知に分類されるものであることには注意が必要であろう。
知ろうとするものが現量の対象ではなく、知覚には現れることができないが、その対象の存在が知覚可能であることによって、知覚からは秘匿されている対象を正しく推理する知が比量であるが、この比量には、「これは無常である。所作であるから。」「峠には火が有る。煙があるから。」「この机の上には茶碗がない。茶碗があれば知覚できるが茶碗が知覚できないから。」といったある事実として起こっていることの知覚・非知覚によって知ろうとしている事実を推理する「事実に基づく推理」というものがある。
これに対し、天空に昇っている大きな星で兎の模様がある星のことを月であるという情報を先に知っていて、その星を見つめて兎の模様を確認している時、「あの星は月である。兎の模様がある星を月と表現できるからである」といった言語的な推理をするものを「言明の比量」と呼ぶ。天空に輝く柄杓形の北斗七星の柄杓の先の部分を五倍くらいの長さに延長した場所で輝いている星のことを北極星とよび、そこは北であるということを習って知っていて、空をみた時に北極星を確認することができる知もまたこの言明の推理であり、この言明の推理によって北極星を知覚できているときに、その方向が北であるという事実を推理することができる。
また釈尊が「施しをすれば受容がある。戒を護持すれば身体は清浄となる。」と説かれていることのように、具体的にはその関係性や事実が知覚不可能なものであるが、このことに関して釈尊が様々な説明を行なっておられるのを聴聞し、釈尊が示されている論理などによって分析的に思考をすることを通じて、「施しをすれば受容がある」というこの事実関係に関して確信をもつことができるようになり、「ビンビサーラ王は釈尊に竹林精舎を寄進するほどの稀有なる機会を得た。何故ならば、彼は過去世において布施を広大に行なったからである。」といった命題に対して確信をもてるようになる場合や、「阿弥陀如来は一切衆生を極楽浄土へと引導する。何故ならば過去にそれを発願したからである」といった命題に対して確信をもてるようになる場合は、確信である推理ということになる。
比量にはこれ以外にも譬喩による類推による推理というものをこの三つ以外に別立てする帰謬派のような学派もあるが、比量の対象となるものが、単に知覚できない事実なのか、命題的な事実なのか、通常知覚することが難しいが信頼にたり得る命題であることによって確信できる事実なのか、ということによって三種類に分類することができ、本偈はこの三つを紹介している。
以上が正しい知であり、量である現量・比量は、認識の正しさや命題的思考の正しさを保証するものであるが、これに対して知ろうとする対象を正しく理解していない知や理解すべきものではないものではない誤った対象を理解している知や、その対象を知ろうとしても確定できないような知は誤った知であり、この誤った知は対象に欺かれている知であるので、その知に基づいて、その知を根拠として行動を起こしても、期待すべき対象を正しく得ることは不可能なのである。たとえばすべてのものは永遠であり常住であると理解している知は誤解であり、その誤解に基づいて自分は死なない、明日もきっと生きている、十年先もきっと生きているといった根拠のない知に基づいて様々な行動をしている。自分だけのために一生懸命働けば、金持ちになって幸せになれるといった、まったく誤った認識によって、自己の利益のみを追求し、他者の思いや幸せを無視して傍若無人に行動したりする。これらは誤った認識を動機の裏付けとしているからこそ、様々な予想もしなかった問題に直面することになり、最終的には自分自身を破滅へと導いていく知にほかならないのである。
知とはどのような本質をもち、それはどのような場合には正しい知であり、どのような場合には正しくない知であるのか、ということを知ることは、私たち自身のすべての営為がすべて個人的な動機や思索に発するものである、ということを知り、その個人的な思索や認識というものが如何に私たちの営為を左右するものであるのか、ということを痛感させ、自分たちの可能性を最大限発揮して無駄な努力や徒労で一喜一憂しないようにするために、どうしたらいいのか、ということを知る問いかけである。量とは何か、現量とは何か、比量とは何か、ということは釈尊の説かれた論理をもとに、ディグナーガ、ダルマキールティがまとめて大成し、それらは仏教認識論・論理学としてまとめられているが、仏教を学ぶときに私たちが如何に如来たちのような正しい認識だけによって生きるためにどうしたらいいのか、ということを教えている。量についての学問は、解脱と一切知へと至るための道であると言われるように、この学問は深淵であり、浩瀚なものであり、クンケン・ジャムヤンシェーパのこの分野に関する著作も多いが、ここでは知の種類について例示しただけに留まっている。
私たちが世界に対峙して何かを知るとき、その世界や私たち自身が神の創造物であるのならば、私たちの見ている世界や私たちの知が神の意思に合致するものなのかどうか、ということが最も重要な関心事となる。しかし仏教ではこのような認識論や世界観は認めないのであり、私たちは世界にどのように働きかけ、私たちが求めている目的や対象を正しく認識できているかどうか、ということは私たち自身のはたらきかけ、所作、業によってすべてが決定される、ということは、私たちの知や感覚のそのすべてが自分たち自身によって正しいかどうか検証され、すべてのものの本質を見誤ることなく孤独に世界に対峙しなければならない、ということである。ディグナーガやダルマキールティは釈尊が量となられた方である、というこの命題を証明するために、さまざまな認識論・論理学の議論を行なったが、その議論のすべては、我々が求める対象を誤った認識によって欺かれず、正しく認識していくために、釈尊こそがその公準となっているということを示すものなのである。