2021.03.17
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

地獄の沙汰は我々次第である

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第14回
訳・文: 野村正次郎

灼熱の鉄の大地へと晒されて火炙りとなる

武器の雨は降り注ぎ身体中へ刺さっている

獄卒に串刺しにされ溶けた銅を飲まされる

舌を引き伸ばし鉄釘は打たれて吊るされる

氷山に囲まれ凍った穴に監禁され

極寒の強風が吹雪いて凍えていく

あちこちに水疱ができ時に破裂し

身体のすべてが粉々になっていく

18

本偈は、前偈に引き続いて、死の無常を思い、死後、輪廻へと転生せざるを得ないことの恐怖を思う部分のうち、まずは悪趣の苦しみを想起するための最初のものとして、地獄の苦しみというものを思い起している部分であり、前半は熱地獄・後半は寒地獄の苦しみを描いたものであり、合わせて地獄の熱さと寒さの二つの苦しみを具体的に表現している。

地獄とは奈落ともいうが、衆生としての地獄とその居住空間である地を区別して理解しなくてはならない。これは受刑者が移動して刑務所に拘留されていない状態を想像すると分かりやすいが、居住空間としての地獄にいる者には閻魔や獄卒なども含まれるのであり、地獄という場所にいるからといって地獄の衆生であるということにはならない。

閻魔は衆生としての地獄にどのような悪業を積んだから地獄に生まれているのかを説明する役割をもっており、餓鬼の姿をしているが、神々にも匹敵する財を享受する者であり、地獄の住民に刑罰を与え、死後罪人を地獄へと連れて行く獄卒たちも餓鬼であり、彼らは刑務官のように地獄を監督するという業務を行っているが、受刑者として苦しみを味わう衆生としての地獄ではないのであり、あくまでも彼らは餓鬼であり、地獄という場所には、地獄という衆生だけではなく、餓鬼も共存しており、刑務所の職員のようなものであるので、地獄にいるすべての衆生が地獄の衆生として苦しみを味わっているわけではないので、まずはこれを分けて考えておかなくてはならない。経量部では地獄の獄卒たちは山の形のように、物質であり衆生そのものではない、という説を取るが、地獄の獄卒たちは一般的には他の衆生が苦しむことを喜びとしている餓鬼にほかならない。

このように地獄を理解するためには、まずは地獄の住民として苦痛を享受している衆生と彼らが住んでいる場所を分けて考えることは極めて重要である。地獄は六道輪廻の一種であり、動物と人類といったように衆生の種族の区別のひとつとしての地獄は、生物の一種であり、神々と同じように神々ならば天国に住んでいるように地獄の住民はそれぞれの苦痛の度合いに応じた地獄の衆生として生まれ、その衆生たちが主に住んでいる場所は別途存在している。しかるに地獄という場所がどこにあるのか分からないのは、たとえば私たちが日常生活のように刑務所がどこにあるのかあまり関心がないので具体的に知らないのと同様であり、地獄の住人は、特に無間地獄のような境涯では、身体が生物かどうか見分けることができず、ただ悲鳴だけが聞こえてくると言われているので、地獄の生命体の存在を具体的に特定することは、そもそも困難なことであり、釈尊は神通第一の弟子であるアーナンダーに地獄に見学に行かせて、地獄の様子を弟子たちに紹介したとされているのも、それほど筋の通らない話ではないが、地獄には熱地獄と寒地獄が代表的なものでありあり、それぞれ苦痛の度合いに応じて八つずつある。

まず熱地獄であるが、熱による苦痛が間断なく続いているのが「無間地獄」であり、これは「阿鼻地獄」とも呼ばれるが、それに対して苦痛が時に緩和された状態もある境涯がその他の七地獄であり、これらの八熱地獄は、衆生としての地獄の最も主要なものであるので「八大熱地獄」「八大那落迦」「大有情地獄」と呼ばれている。

この八大地獄を苦痛の少ない度合いから述べるのならば、生まれた瞬間から武器を手にして、相互に殺戮し合わないといけないが、どんなに危害を加えても相手は死なず、こちらも危害を加えられて倒れてしまっていても、蘇りなさいという命令が聞こえてきて再び戦闘状態に戻らないといけない生物が「等活地獄」である。次に獄卒が手にしている黒い縄で身体の切り取り線が描かれ、その線にしたがって身体が切り刻まれて激痛を味わい続けるのが「黒縄地獄」である。

その次には二つの金属の山に閉じ込められ、その二つの金属の山で押しつぶされ、身体中から血飛沫が吹き出して血流が川のように流れだし、血抜きをされた後には、挽肉のように潰され合挽き肉となっていく苦痛を味わうのが「衆合地獄」である。さらにそれよりも痛みが激しいのは、鉄でできたオーブンのような部屋に閉じ込められたまま丸焼きにされるのが「叫喚地獄」である。さらにそのオーブンで一度だけではなく、二度焼きされるのが「大叫喚地獄」である。

さらにそれよりも残虐なのは、まずは鉄の鍋でよく煮込まれて、その上で、尻の部分から頭の部分までを貫通する串にされ、よく丸焼きにされ、体のさまざまな穴などからは焦げ目がつき、火が通った後には、熱い鉄板の上に置かれたまま、金槌で潰されて平らにされるのが「焦熱地獄」であり、さらにそれよりも残虐なのは一本の串だけではなく、三本の鉄の串にさされたまま、まずは燃え盛る鉄板の上で焼き目をつけられた後、鍋のなかでしっかりと揚げられ、骨と皮しか残らないない状態まで何度も鍋に入れられて入念にあげられてゆくのが「大焦熱地獄」である。

これらの七熱地獄よりもさらにそれよりもひどいのが「無間地獄」であり、これまでは武器で刺されたり、燃料を使って燃やされたりしていたが、無間地獄では、生まれたその瞬間から自らが灯明の芯のように燃えており、燃えた状態のまま、ザルで救われて溶鉱炉に入れられたり、平らになるまで叩かれて、口には銅を溶かした液体を入れられたりしながら、ありとあらゆる激痛を味わうことになり、ほかの地獄のように一瞬でも苦痛が少ない状態はまったくなく、常に炎に包まれており、外側から生物が焼かれていることなど誰にも分からないし、ただ阿鼻叫喚だけが他の衆生には聞こえる状態になっているのである。これらの八大熱地獄の四門の外側には、地獄の業火で灰になったものが堆積した場所、排泄物と死臭で満ちた場所、鋭い刃物と鉄の棘が樹木で満ちている森林という「近隣の地獄」がある。

またさらに八寒地獄というものがあり、寒地獄にも苦痛の度合いにより八つがあり、凍傷で水疱ができた地獄、その水疱が裂けている地獄、震えで歯軋りが止まらない地獄、ハハという呻き声で満ちている地獄、フフという呻き声で満ちている地獄、裂けて水疱が化膿しまい青い蓮華のように破裂した青蓮地獄、さらに苦痛が強い紅蓮華地獄、さらにそれらが細かく裂けて粉々になっている大紅蓮華地獄という八つの寒さによる苦痛が耐えない地獄があり、その地獄の衆生たちの住んでいる場所の大きさ、場所などは特定されており、八大熱地獄の向かい側には八寒地獄が存在している。

これらの熱地獄・寒地獄とその近隣の地獄は、特定の場所にあるものであり、そこにはそれぞれ苦痛の度合いに応じて住んでいる衆生たちがいるが、これらの地獄の場所や環境は、すべての衆生が共通して悪業を為したことによって生成されているものであるが、特定の少人数の個体の有情が為した悪業によって転生した衆生はこれらとは別に存在しており、その地獄のことを「孤一地獄」というが、この地獄の住人の居住地域は主に熱地獄・寒地獄の近辺に位置しているが、私たち人間が住んでいるこの空間にも彼らが転生してその居住空間を形成している場合もある、と『瑜伽師事論』では説明しているので、私たち人間が住んでいるこの空間のなかにも特定できるわけではないが、地獄の住人が住んでおり、彼らが住んでいる場所もあり得るということになる。

地獄の衆生たちに共通している特徴としては、まず地獄に生まれる場合にはすべて化生で生まれてくるということが挙げられるだろう。これは神々、いわゆる中有に生まれる場合も天に生まれる場合も同じであるが、業の力が強いことによって地獄に生まれる場合であれ、天に生まれる場合であれ、卵生や胎生や湿生ではないのであり、必ずしも粗大な物質や親となる個体の物質的な身体の一部を継承した形で生まれてこなくても、微細な物質によって身体を構成することができる、業の力が強いことによってそれが可能となる。しかるに私たちが地獄に生まれる場合には、まずは助けてくれる両親も親戚も兄弟もいない孤児であるが、身体的にも成長する必要がないので既に成人した状態であり、生まれてきたその瞬間に、これらの激痛を味わうことになるのである。

また地獄の衆生として生まれてくる場合に厄介なことは、このような化生で生まれてきた地獄の衆生の身体は極めて堅固なものであり、どんな暴力的な虐待を獄卒たちから受けようとも、決して死ぬことがほぼできない、ということが挙げられる。等活地獄でお互いに殺し合って斃れてしまっても、天から蘇りなさい、という声が聞こえたらすべての傷も完治して再度殺し合いをしなければいけないのと同じように、無間地獄でどんなに自らの身体が燃料のように燃え盛ろうともなかなか死ぬことができないのである。地獄の衆生たちは天界の神々と同じく非常に長寿であり、多くの場合には数千万年の百倍以上もの長期間生存し続けて、苦痛を味わい続ける、とナーガールジュナも説いている。地獄の衆生たちはそのような長い時間、ただひたすら苦痛を味わうためだけに生き続けなければならないのであり、もうこの苦しみには耐えかねるとどんなに思おうとも、その時に地獄に滞在することになった業が尽きてしまうまで、激痛を味合わなければならない。長い時間をかけて業が尽きてしまえば、死んで転生することになるが、その場合でも地獄の衆生たちは元来化生の衆生であるので、死体がそこに残ることはなく、一瞬にして消えてしまっていなくなる、という形で死を迎えるのである。

そして地獄を考える上でまた重要なことのひとつに、私たち人間を含めた一切衆生のなかでもっとも個体数が多いのが地獄の衆生であるということがいえる。八大地獄のうち無間地獄から等活地獄までは個体数が減少し、さらに有頂天の神々はもっとも個体数が少ないというように上界に行けばいくほど個体数は減少するが、これは同時にそのすべての衆生が死後転生して得る身体のうち、最も可能性が高いものが無間地獄ということになる。そのようなことからも地獄から脱出することは不可能であり、そこで寿命が尽きるまでは非常に長い時間がかかるが、無間地獄のような残虐性の高い地獄へと転生することは、もっとも転生しやすい転生先であり、たとえ今生で大した罪業は為していなくても、無間地獄へと転生する悪業は無限の過去からの生の連続で積んできたからこそ、簡単に地獄へとはいくことができるのであり、私たちが最も来世に転生する可能性が高い場所は地獄ということになるのである。そしてこの地獄に落ちる可能性を低く評価することは、いわゆるいまの言い方で言えば、正常性バイアスと呼ばれるものであり、論理的にも客観的にも根拠のない偏見に過ぎない。

仏教の修行のはじまりは、死を思うことであり、死後悪趣に陥らないように正しく悪趣に対する嫌悪感や恐怖を抱かなければならないのであり、地獄の衆生のことを毎日考えなければいけないと、ナーガールジュナも説いている。いまのこの人身を得た境地は永続するものではないし、死後もそれは継続的に得られるものではなく、善趣に生まれるとか悪趣に生まれることには自分自身ではコントロールできることではなく、他者によってもコントロールできないし、ただ自分たちが為してきた業の力のみによって、どのような境涯をもって転生するのか、ということは決定している。地獄に生まれるためには神の審判なども必要ないし、自分自身の力で自然に生まれることができるのであり、地獄に生まれたことは誰かのせいでもないし、地獄で獄卒たちに暴力で虐待され続けることも誰かのせいでもないし、社会のせいでもない。ただ自己中心的な考え方により、他者よりも自己を大切にしてきた業とその結果として、地獄へと生まれてきて、ありとあらゆる苦しみを味わうことになるのである。地獄の悲惨な生は悲劇そのものであり、そのようにならないためにはただ他の衆生に対して思いやりをもち、他者に対して楽を与える善業を積んでいくしかないのであり、それも意識的に善業を積むためには、仏法僧の三宝に帰依する意思を固くもち、地獄・餓鬼・畜生へと転生する前に渡るといわれている三途の川を決して渡るのではなく、再び人身を得て、利他を行う最適の環境に再生しようという意思を堅固にするしかないのである。地獄の激痛というものがもつ唯一の功徳は、それに対して恐怖を抱くことができるということであり、自らが地獄に落ちた時の身体に起こる苦痛のほとんどは、いま既に私たちが他の衆生に対して与えている苦痛を自分自身が受けるものにほかならない。

私たちはいまも鉄板の上で生物を生きたまま焼いたり、串刺しにして揚げたり、オーブンで焼いたり、ミンチにしたりといったことは現実にいまも行っている。生きたまま鉄板の上で海老を料理し、海老たちの断末魔の苦しみを見て震撼することもなく、楽しく愉快に酒を飲んだりして暮らしている。世界の三大宗教では地獄の苦しみという警鐘が既に鳴らされて久しいにも関わらず、近年では自然に暮らしている野生動物を殺戮して「ジビエ料理」として老若男女で楽しんでおり、地獄や天国の話など作り話であるとして、友人や家族や愛する者たちが死んでも彼らが地獄に生まれてしまうかもしれないという心配など全くしないし、熱地獄のように料理される生物がまさか自分たちであるとは思いもしないでただひたすら享楽的に暮らしている。快楽だけを享受できる天国があると想像して信じることができるが、激痛だけを享受している生物たちがいることは想像したくないし、そんなものは存在しないと根拠もなく断定してしまっている。これが邪見であり断見であり、邪見や断見をもっているその業の結果は、寒地獄で自分たちの体が寒さで水膨れだらけになって破裂してしまっても死ねないような苦しみを味わうことであると、どんなに仏典で説かれていても、それは非現実的な話であると聞き入れないようにしようとする。しかし、これらの悪業こそが地獄の住民たちが住んでいる地獄を形成しているのであって、他者の生命に対する思いやりのなさ、自己愛に執着して、他者に危害を加えて暴行に及ぶこと、これらのことによって地獄へと転生するものが増加しているのである。そしてそのような原理を理解しないまま享楽的に生きて他者の生命を脅かし続けた結果、自分たちが他者に対していま行っている残虐行為を味わうだけの生物へと転生しなければならなくなる。地獄など存在しないと楽観的に思うのは自由であるが、そのことを根拠に他の生物に対する暴力的な行為を慎む気持ちは弱体化し、そのことが原因となって地獄というものがこの世界に存在しつづけることになっている、ということに私たちはそろそろ気づくべきであろう。

我が国でも弘法大師空海はその主著『十住心論』で「地獄はどこにあるのか、とつらつら観ずるに、それは自分の心のなかにある」と地獄を我々が心に抱えている狂気と残虐性という煩悩が作り出したことを説いており、恵心僧都源信の『往生要集』の冒頭にも地獄に関する詳細な記述があるし、部派仏典であれ、大乗仏典であれ、すべて地獄に関する記述は似通っており、龍樹の『宝行王正論』や『勧戒王頌』にも死の無常を思い、悪趣の苦しみへと思いを寄せ正しい恐怖心をもつことが仏道修行の第一歩であることは明記されており、無着・世親の著作、特に世親の『阿毘達磨倶舎論』における地獄に関する言及は、仏教を学ぶ最初の学ぶべき情報なのであり、本偈の著作者ツォンカパの代表作の『菩提道次第論』でもこのことは極めて重要であり、ここに記したような地獄の種類や苦しみについて詳細に説明をしていることは決して無意味なことなのではない。

残念なことに、狂気と阿鼻叫喚に満ちた残虐極まりない地獄とは私たちがいま作り出しているものであり、これまでも煩悩と業によって作り出してきたものなので、そう簡単に地獄が存在しなくなることはない。地獄が存在しなくなったらいいと希望をもちたいのならば、まずは地獄から私たち人間のような善趣へと転生し、善業を積んで再び人間になる生物を増やし、解脱と一切智の境地を実現して、仏法を説いて人々が地獄へ転生するような悪業に塗れた、行動、言動、思考をやめるようにひとつひとつ努力していくしかない。地獄とは無限の過去から存在しているが、その未来は有限であるとされている。何故ならば、一切衆生が成道して、この世界のすべてが涅槃寂静の境地へと至ることができるからである。この世界から狂気と暴力に満ち、激痛が走る地獄というものを消滅させるため、私たちは毎日地獄の衆生の苦しみを思い、他者に苦痛を与えないように日々努力することができるのであり、地獄の未来は私たちひとりひとりの他の生物に対する思いやりにかかっている。地獄の衆生たちは決して苦しみたくて苦しんでいるのではないのであり、その激痛を思うのならば、私たちはどうあるべきか、ということは自然に答えがでると思われる。私たちの社会に刑務所を作り出したのは私たちであり、それと同じように地獄という悲惨な生物と場所を作り出しているのも私たちである。しかし私たちの社会から犯罪をなくし、刑務所に拘留される者を減少させることができるのと同じように、地獄というものに終止符を打つことも私たちは実現できる。地獄の沙汰は、我々自身が自分たちの心に潜む狂気と残虐性を克服しようとする善意にのみかかっているのである。

地獄絵図に描かれる光景は、実は私たちの身近にある光景である。

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