内部の対象とは、眼等の五つである。
物質には、外部物質・内部物質があるうち、その内部物質には、眼・耳・鼻・舌・身の五つがある、ということをここでは述べている。眼・耳・鼻・舌・身は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根、あるいは眼界・耳界・鼻界・舌界・身界と同義であり、それらは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の拠り所として働き、色・声・香・味・触という五つ外部物質を感知する内部物質、すなわち身体器官である。
眼根とは、「増上果たる眼識の不共の増上縁として働く種に属する内部の清浄な有色のもの」と定義されるものであるが、この定義は、眼識が起こる独自の必須条件として機能し得ること(自身の結果たる不共の増上縁として働くこと)、それらが我々の身体内に存在するものであること、特定の対象を特異的に把握するのではなく、すべての視認対象を客観的かつ中立的な物質として組成されているもの(清浄な有色)である、という三つの条件が組み合わさったものである。眼根以外の耳根・鼻根・舌根・身根もまたこれと同様な定義が与えられるものであるので、ここでは眼根とは何かということこの三つの定義要素を検討しながら考えてみたい。
まずは眼根の定義のうちの「増上果たる眼識の不共の増上縁として働く種に属するもの」という部分であるが、増上縁・増上果とは、たとえば青を認識する視覚・眼識が起こる時、青は「所縁縁」と呼ばれる視覚の対象となるものであり、青を捉える感官である眼・眼根のことを「増上縁」と呼び、その存在が条件となって成立する青の認識たる眼識は「増上果」と呼ばれる。青・眼根・眼識はそれぞれ因果関係があり、所縁縁・増上縁・増上果は、因果関係にはあるが、物質としては異なった連続性をもっているので「因」「果」とはされず「縁」「果」と呼ばれるのである。そして、青を見ている眼識が起こるための拠り所となる眼根とは、眼識の増上縁として働くもの、と定義されていることから、たとえば眼球を構成する角膜・水晶体・網膜が「眼」であることは言うまでもないが、視覚を作り出すための物質であるといえる視細胞・視神経も「眼」「眼根」であるし、脳の後頭葉にある視覚野の脳細胞も「眼」であるし、神経細胞も視覚神経を伝わって視覚を形成する神経細胞を帯電している電子もまた「眼」であり、「眼根」であるということになる。このように通常我々が眼であると考えている眼球だけが「眼」や「眼根」なのではなく、それ以外の眼識を司る、多くの物質組織を含んだ、視覚を生み出すための様々な諸要素のその全体を指して仏教では「眼」であるといっており、そのことは「眼」だけではなく「耳」「鼻」「舌」「身」についても同じことが言える。
この視覚器官「眼」は視覚の所依となり、「眼識」を生み出すのであり、視覚器官から聴覚が生み出され、味覚が生み出されることはない。そして「眼」とは色・声・香・味・触のうちの色処だけを生み出すというように対象の側からその器官を定義するのではなく、生み出されている眼識・耳識・鼻識・舌識・身識というものから定義しているものであり、通常私たちが考えているようなタンパク質で組成された眼耳鼻舌身の細胞組織などはあくまでも外部物質であり、大きいとか丸いといった形状や色調をもつ眼球そのものの部分は外部物質のひとつの色処であるが、それが眼識の所依として機能し得る場合には内部物質であると区別して考えなければならず、外部物質から区別されて感がられている内部物質は、それぞれ対応する感官知だけを生じる機能を有しており、覚醒時にはこれらの感官は感官知の所依を為しているが、睡眠時にはその機能は一時的に停止しているが、機能障害があるわけではないので、「不共の増上縁として働く種に属するもの」と表現されるのである。
またこれらの感官は「清浄な有色」と呼ばれ、特定の外部物質の特性に特化した状態ではなく、何にも染まっていない中立状態であることが「清浄」という言葉で表されている。この伝統的には「清浄」と翻訳されるものを「透明な物質」というように近年翻訳する者も多いが、この翻訳はあまり正確なものということはできない。何故ならば、ガラスや水晶のような透過度をもつものは、あくまでも色調すなわち先に説明した顕色のうちの白に分類されるものであり、そもそも無色・透明色といったものは、仏教では認めていないからである。
透明・半透明といった状態は、物理学でも光の波長が散乱や吸収を起こしていない状態を透明色というだけであり、透明色という特色があるわけでもないし、乳のようなものは白色であるが、水晶のようなものも白色であるとしなければならないので、これら眼根などの感官を「透明な物質をとっているもの」といった理解をすることは、却ってこれらの感官に特定の印象をもたせることになり、あまりよいものではないだろう。この「清浄なる」という限定語は、感官自体がすべてのものを青や赤のような特定の特性に偏った傾向にはない、ということを示しているものであり、中立的なものであり、何を見ようとして、何を聞こうとしても、それらの感官は、対象の特性に応じて公正に感応することができる状態にある、ということがここでは表現されているのである。もしも「透明な物質」というように理解するのならば、すべての衆生の身体は透明人間のような状態である仏教は説いているということになり、そのようなことは一切説いていないので、実に具合の悪いことになってしまうので、「透明」といった理解をしないようにする方がよいだろう。
ここで眼根・耳根・鼻根・舌根・身根といった感官は、決して人間だけのものではなく、微生物に至るまで視覚をもつ微生物には眼球がなくても形状や色彩を把握することのできる眼識があれば、眼根をもつということになり、その眼識は人間の眼識とはかなり異なるものであるが、眼識であることには変わりはない。そしてそうした様々なありとあらゆる一切衆生のケースを考慮した形で、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根といった五根は定義されている。
現代の生物学では、光に反応する視覚を微生物でも有していることなども確認されており、微生物にも心があるものとそうではない衆生かどうかという差異がわかりにくいものも多いが、そのような生物が眼根と身根をもっていることは確かであろうし、眼根や身根があるかどうか、その個体が生物かどうか、といったすべてのことは、それらが識や心をもっているのかどうか、ということによって決定されている。だからこそ仏教では断食修行や苦行というものは基本的に体内の微生物に対して危害を与える可能性があるので衆生済度・非暴力の精神に反するものとして、禁止されているのである。またこれらの身体器官のすべてはあくまでも物質であって、精神ではない。しかるに遺伝子や血液型によって人格が変わることもないのであり、脳細胞や神経系の組織によって心の状態や思考能力に際が起こるわけでもない。そしてそのことは仏教では物質的な身体は物理的な能力の限界があるが、精神は物質ではないので、無限に発展することができる、という論理を支える重要な考え方のひとつであるといってよい。
私たちのほとんどの認識はこうした感官によって経験した内容によって楽や苦を経験しているのであり、私たちすべての生物の個体にとって感官という拠り所がなければ、何も認識できないことになるからこそ、この感官は私たちにとって何よりも大切な身体であるということになる。だからこそ他者の感官を物理的に破損しようとする暴力的な行為は決して為してはならない、ということになる。眼・耳・鼻・舌・身を私たちは当たり前のように享受しているので、そのもの自体を私たちが所有していることが価値のあることであると考える人は少ないだろうが、それはほかの何よりも私たちが失いたくないものであることは間違いないだろう。感官というものがどのようなものなのか、ということは普段は気にしていないだろうが、よくよく考えてみれば、私たちが人間としていまもっているこのような感官をもっていることが極めて幸運であるということに気づくことができると思われる。