2021.03.08
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

何故私たちは経典の文言を暗記しておかなくてはならないのか

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第13回
訳・文:野村正次郎

意味の老師は文章の杖に依っている

しかるに経文を記憶し受持しようとせず

経典を読むだけや小声で朗読するだけで

日々を過ごしても何の役にも立ちはしない

経文を記憶し 諷誦するよう学びなさい いざ

13

私たちには、宝物のように大切にしておきたい言葉というものがある。その言葉を聞いたのならば、その言葉を忘れないように、出来るだけ正確に一言一句書き留めて、文字に記して残しておこうとする。私たちが生きている日常で、その言葉は私たちに生きる意味を与えてくれ、そしてどう生きるのか、ということも教えてくれる。書き記した言葉は、私たちの生の記憶の記録でもあり、そして私たちの道標ともなる大切なものであるので、その言葉を文字に記したものも大切に保管するようにする。

その言葉は大変大切なものであるので、自分の大切な友人、知人、家族たちとも分かち合い、自分用の記録だけではなく、同じ言葉を彼らにも書き写してその紙片を彼らにも渡しておきたいと思う。何故ならば、その言葉が私にとって特別で、大切にしたいのと同様に、自分たちの大切な人たちにもきっと特別で、彼らの生をよりよく変える力があると私たちは信じるからである。こうしてはかなくも、何もしなければ消えてしまいそうな大切にしたい言葉を私たちは文字として記録し、大切に保管し、他者とも共有するために書となっていき、人に手渡されていく。

私達には、そんな大切な言葉を、他人から教えてもらって聞くこともある。敬愛する友たち、そして先生たち、彼らは自分たちが知っている大切な言葉を私たちにも教えてくれる。最初に誰が言ったことなのか、ということはそれほど重要ではない。彼らが大切にしていること、そしてその彼らが大切にしているその言葉が私たちに伝えられている、ということが私たちにも大切なのである。彼らが教えてくれるその言葉は、最初は私たちがいま直接会って話を聞くことのできない人たちの言葉かもしれない。しかしその私たちが大切にすべき言葉が、どんな意図で発せられたものなのか、どんな気持ちでどんなことを伝えようとして発せられたものなのか、そのことを私たちは直接体験していないけれども、自分たちの大切にしている人たちから伝聞して聞くことができる。彼らはこの言葉は大切なことを教えてくれていることを私たちに教えてくれる。だから私たちは彼らがそう言ってくれたその言葉を一言一句忘れないように記憶に留め、先生たちがその言葉を語ってくれたのと同じように自分もまた、その優しくも深遠なる口調でその言葉を発する練習を何度もやってみようとする。

最初は文字や書き記した覚書に依らなければ、その言葉を一言一句思い出すことができないかも知れないが、その文章をきちんと心に刻みこんでいき、記憶をたどれば一々文字に書いたものを出してこなくても、自分たちの口から、そして自分たちのはっきりとした声として、その言葉を発することができるようになるのである。それらの言葉に向き合う時、最初は単に借り物のことばに過ぎないかも知れない。自分たちの考え方や生き方とは無縁なものかも知れない。しかしその言葉は私たちの敬愛する人たちが、あの口調、あの雰囲気、そしてこんな文字の連綿で教えてくれたものなのである。書き記されているその文字を見つめているならば、文字と文字、行と行との余白から、その言葉がいまここの空間に美しく、心念なる言葉という音響現象がまるで実際の人たちがいるかのように再現しているようである。

ひとり静かにそうした自分が聞いた大切にしたい言葉に向き合って、その言葉を静かに口にだしてみて、文字をみなくても、他者の震えた身体から発せられたその声を、自分の身体を震わせてもう一度聞こうとし、そして自分でもその言葉を発してみる。

夜が明けて早朝に目が覚めると、あの師匠たちが、朝の静けさのなかに如来たちから伝わる言葉を唱えていたのと同じように、私たちも今日という日は宝物のように大切にしておきたい言葉とともに今日という日を生きてみたいと思う。

毎日私たちが耳にする、眼にして読んでいる言葉の海のなかには、もちろん私たちには必要ではないもの、用事が済めば忘れても大丈夫な言葉ももちろんある。しかし、釈尊たちが如来の身体を震わせて、私たちへと教えてくれること、それは「すべての生き物は幸せになりたいと思っているので、他者の生命を奪うのはもうやめましょう」「すべての集まってできているものは無常である」「私たちが幸せになろうとして追い求めているものは、苦しみであると知りなさい」--こんなシンプルなメッセージかも知れないが、決して忘れてはならないような大切なことを教えてくれているものであり、その言葉をただ文字に記されているものを過去の言葉として朗読してみたからといって決して私たちの役にたつようなものではない。

私たちは彼らの言葉の重み、彼らが伝えたかったこと、それをしっかりと受け止めて、彼らの発したあの美しくも深淵な声に耳を澄ませて、自分の身体にもう一度響かせて、たとえ記憶喪失となり、年老いて痴呆になろうとも、そして死んでしまい、断末魔の苦しみですべての記憶が薄らいでしまっても、ただ心にしっかりと彼らの言葉を刻み込み、どんなにつらいときでも決して忘れないようにしておけば、どんなことがあってもきっと道に迷ってあたふたすることなど決してない、そう私たちは信じることができるのである。

如来たちの言葉、祖師たちの言葉、それらは私たちが発するどうでもいい言葉のような無駄なものが一切ないのであり、時を超えて、場所を超えて、どんな時代にも決して色褪せることのないような普遍的な言葉であり、その言葉は普遍的な価値を伝えてくれているものであり、どんな高価なものよりも貴重なものである。何故ならば、店にいって買ってくることができるようなものではなく、自分でしっかりと受け止めて活用しなくては、その言葉をもっていることには何の利益もないからなのである。

経文をひらけば私たちは如来たちに会えるし、偉大なる祖師たちが語りかけてくれている。しかしそれらの言葉を自分たちの記憶に刻まなければ、所詮書物のなかの出来事であり、それでは私たちの生の営みは何ら変わることはない。経文をひらき、その経文の文章をひとつひとつ丁寧に暗記しようとして、そして経典が書かれた書物などの媒体をもってあるかなくても、私たちは心に刻んだその素晴らしい言葉を自らも発することができるのならば、私たちはいつの日か必ず、自分だけが主人公である、この劇で主役として立派な台詞を間違うことなく、心を込めて全身全霊で発することができるようになるのである。そしてその時は、この一切衆生という観衆から喝采をあび、彼らの心にきっと残り染み入る言葉を発することができるはずなのである。

その日が来るまでは、まずは役者たちが台詞を覚え、脚本のひとつひとつの場面、芝居の所作のひとつひとつの動きにいたるまでを何度も考えて工夫して、如来のように、一切衆生を利益する大舞台で常に主役として生きることができるため、日々精進して稽古に励んでいくしかないのである。

能を大成した世阿弥も「初心忘るべからず」とおしえているように、すべての生きとしいけるものをすべての苦しみから解放するため、まるで小さな果物の実を手のひらにのせたように真実のすべてを知る一切相智という仏位を目指そう、という初心、この最初の志である菩提心を決して忘れてならないのである。

そのためには私たち自身が主人公であり続けなければならない、この芝居で台本を忘れて舞台に上がるわけにはいかないのであって、私たちは常に精進あるのみなのである。芝居の途中で台詞を忘れていては観客を最低限満足させることはできないし、観客の心を歓喜に満ち溢れたような状態をつくり、彼らの生を変えるような救済の言葉を発することなどできない。だからこそ、如来たちが伝えてきてくれた、この経本に書かれている私たち自身が発するべきその台詞、その言葉を私たちは心に刻んでいかなくてはならないのである。

仏教を学ぶ第一歩は、仏典を師匠から教授してもらい、その仏典を暗記して、暗誦できるようにしていくことからはじまる。仏典を書写し、供養し、弟子たちや級友たちへと配布し、師僧たちから講義してもらい、講義してもらった仏典を何度も読んで復習する。その上で、仏典の文言を理解して、決して忘れないように記憶にとどめて暗記し、常日頃その仏典の文章を経本を見ないでも暗誦できるようにし、ひとり静かに仏典の意味へ思考をめぐらし、その内容を繰り返し心に反芻し修習する、これが十法行と呼ばれる仏教の具体的な実践法である。

仏典を暗記するということは、「正法を正しく受持する」という表現でも示されることであるが、如来たちが与えてくれている脚本にも似たそれらの言葉は、ひとつひとつ意味があるものである。その意味は言葉を杖にして歩き出すものであり、私たちもまたその杖がなければ決して仏弟子として歩き出すことができない。本偈は十法行のうちの暗記をすること、「正法を正しく受持している」ということの大切さを教えるものである。

心が込められていない言葉ほど意味のない言葉はない。それと同様にただ文字面を読んでいる祈りのことばは祈りではない。「もう自分のことばかり考えるのはやめて、他者を大切にしましょう」というのは単なる文字ではないし、如来たちの発した言葉の記録である経典の文章もまた、紙に付着した墨の染みが複雑な形をしているだけのものなのではない。仏典を学ぶということは、私たちがいま立っているこの舞台において、一体どのような役を演じ、どのような台詞を語るべきなのか、このことを如来たちが示した脚本を学ぶ、ということである。

私たちは一切衆生で満場になった舞台に主役として必ず立たなければならないのであり、代役はいない。だからこそひとつひとつの台詞を暗記し、幕の流れを把握し、日々の稽古に精進しながら、私たちのために書かれているその台本をしっかり覚えておく必要があるのである。

私たち仏教徒は満場の観衆のなかでいつかはダライ・ラマ法王のように説法しなくてはならない。しかしこんな舞台に上がらなくてはならない日が来なくても、毎日超満員の一切衆生の前で主人公として生きている。

デプン・ゴマン学堂では朝夕毎日暗記と暗唱のための時間が設けられています


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