2021.02.07
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

触れて感じることのできるもの

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第11回
訳・文:野村正次郎

触とは、地・水・火・風および

滑・渋・重・軽・冷・飢・渴の十一である。

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触覚が対象としているものが触処であり、身根という皮下を走っている神経系の感覚の感触を分類すれば、触覚が対象に触れるだけで得られる地水火風の四大種の感触と、触覚が対象と接触している時間的変化によって得られる七種の大種所造の感触とに分類することができる。

四大種と呼ばれる地水火風は、物質の全体的な状態を分類したものであり、固体・液体・気体という物質の三状態に、熱を放つ炎や稲妻や熱線やレーザー光線などのようなプラズマ状の第四の物質の状態を加えた四つの物質の状態を四大種とし、それぞれは硬くてしっかりとしたもの(地)、塗れて湿った液状のもの(水)、熱を放って他のものを燃焼するもの(火)、軽く動くものであるもの(風)という定義を持っている。ここでの「火」は、ほぼプラズマ状のもののことであるが、電磁波や紫外線やマイクロ波のように通常の感官知では感知できない微細なものは除外され、触覚が触れるだけで感じとることができる粗大な物質の触感は四種ということになる。

これらの物質状態にさらに感官が触れている時の時間的変化によって感受されるものを大種所造というが、具体的には、水・火が顕著な表面がつるつるで滑らかなもの(滑)、地・風が顕著な表面がざらざらもの(渋)、地・水が顕著な重たいもの(重)、火・風が顕著な軽いもの(軽)、水が顕著なもの(冷)、風が顕著で消化器官に入れても食欲を満たさないもの(飢)、火が顕著で飲んでも喉の乾きを増進させるもの(渴)という、七つの状態を別立てすることができ、四つの大種と七つの大種所造を合わせ、合計で十一種の触処の分類が紹介されている。七つの大種所造はすべて、表面がつるつるで滑らかなもの・表面がざらざらで滑らかでないもの・表面の滑性が中程度のものという三つの状態にまとめることができるし、『阿毘達磨集論』ではさらに多くの分類をしているが大種所造の触処の分類の全ては、存在しているだけで感受できる大種と触覚の時間的経過によって感受できる大種所造との二種がある。

今日「大」「大種」(mahābhūta)と呼ばれる地水火風のことを「元素」(elements)と訳し、仏教用語辞典などにもそのような記述もあるが、これは正確ではない。何故ならば地水火風などは「元素」のことではないのであって、地水火風を元素であると考えるならば、仏教全体の教義としては論理的な破綻をきたすからである。

そもそも「大」「大種」と漢訳されるmahābhūtaという言葉には、「元素」(elements)という意味は全く含まれていない。この言葉は、サンスクリットの「大きいもの」(mahā)「生成されているもの・出来上がったのもの・現実のもの」(bhūta)という二つのことばを組み合わせた合成語であり、物質を巨視的に観察した時の全体の状態・全体のことを表している。この現実のもの、というものが事実をも表し、それは真実を表すことができる。だからこそbhūtaの反対語は「そうではないものとなるが、これは現実とは異なるもの、見せかけだけのもの、事実に反するもの、ということを表すことができるのである。

これに対して「元素」(elements)とは、物質を構成する要素を分解していった時に得られる不可分な要素のことをいう。これをさらに微細な基礎単位へと分解することができ、元素は原子より成るものであり、原子は原子核である陽子や中性子によって構成されている。同一元素でも構造体が異なることから同位体とされるものもあり、こうした物質の構成要素を分解していく考え方は、仏教文献では、極微論に相応するものであり、毘婆沙師は分割できない最小単位の極微を真の実在としており、この物質の構成要素に関する発想は自然科学の思考法とそれほど変わらないものと言って良い。

「元素」とは、物質が如何なる素材でどのように構造的にできているのか、というその組成に関する問いからうまれる概念であり、これは知的に物質を分解し分析し、顕微鏡のような知覚能力を増幅する装置で観察することによって理解できる単位の物質状態であり、仏教文献であろうとも自然科学であろうとも変わりはない。これに対して「mahābhūta」とは、まず通常の感官知の対象であって、顕微鏡や特殊な測定器で観測しなくても、それは地・水・火・風のどれなのか、という感触でわかるものであり、それはそこに存在している触感なのであって、これは特殊であり、その触感の由来となる個物ではないのである。

たとえば目隠しをしていても指で茶碗が固体であることも感じられるし、そこに液体が入っている場合には、液体状の部分と固体状の部分との触感の大きな違いから、固体状のものと液体状のものという二つの相反状態にある物質がそこにあることを感じることができる。茶碗の底を触り、ざらざらしているなら、それは備前焼や信楽焼のような陶器であることも分かるし、つるつるして滑らかであれば、それは磁器の茶碗であることも推測できるし、少しひんやりとしたものであればガラスの茶碗であることもわかるし、茶碗と液体との温度差がほとんどないことから、銅器のような金属を使った茶碗であることも、視覚の力を借りなくても触覚だけである程度確認することができる。温かい風があるのか、それとも火傷しそうな炎があるのかも、目隠しをして触覚だけで感じることができる。炎のようなプラズマが存在している部分とそうでない部分をも触覚だけで感じ取ることができる。触処を分類した時の項目として考えているものは、このような触感の違いなのであって、それらの物質が一体何で出来ているのか、という組成の起源に関する分析ではない。普通の人が茶碗に注がれているお茶が具体的にカテキンや水素と酸素やアルカリや放射性物質や原子や陽子などのどのような成分でできているのか、ということは見たり飲んだり触って分かるような対象ではない。茶碗の中のお茶に目隠しをして指先だけの触覚だけでは、それがある温度をもつ液体であることしか分からないのであって、緑茶が入っているのか白湯が入っているのか、あるいは青酸カリのような毒性物質が混入された液体なのか、全く区別できないのである。

このことをジャムヤンシェーパは『未完梗概論』では、大種である地水火風と元素としての地界・水界・火界・風界は同義ではない、ということを述べており、その理由として、そもそも原子や元素としては、地水火風は存在し得ない、ということを挙げている。そして物質の由来、すなわち「界」としての地界・水界・火界・風界と四大種の地水火風とが異なることを冷たく透き通った澄んだ水は、温度をもつので火界を有するもの、とはいえるが、液体であり火を有するものとは言えないし、枯れ木は、湿度をもつので水界をもつが液体ではないので水をもたないからである。

ジャムヤンシェーパは地界・水界・火界・風界と地・水・火・風をそのように区別しており、前者は所謂「元素」という訳語に近いものであるが、後者の「大種」とはそのようなものではなく感官が対象と接触している時に同時的に起こっている物体状態に起因する感触であり、そこに時間的変化がある場合については、それは「大種」の結果であるとしている。

色処・声処・香処・味処に関する説明でもすでに繰り返し説明してきたように、これらの地水火風などの分類もまた、個物の分類ではなく、特殊/特性の分類である。これは一言で言うと形容詞の分類なのであって、名詞の分類ではない、と言うことである。大種である地水火風は、通常我々が日常使っている「地」「水」「火」「風」ではない。何故ならば油も液体状のものであるので「水」であるからである。仏典が記述されたサンスクリットやチベット語は、日本語や英語の形容詞が存在しない言語であることはこれらの物質の分析を理解する上では極めて重要な背景であると思われる。

形容詞がない言語においては「青」とは青いものであり、その青い何かと青さとが二つに分けて考えることができないのであり、これと同じように「水」とは液状のものであり、液状の油でも液状の水でもそれは液状のもの/水であるということができるのである。また海水のようにいくら飲んでも喉の渇きが癒えないようなものは、「渴」と呼ばれており、これは液体であるが大種のひとつの水であると言ってよいのかどうか、と言うこと、即ち大種と大種所造との間に対立関係があるのかどうか、と言うことについてはさらなる検討が必要な課題として未解決の問題とされている。そうした個別の問題や様々な問題については、この概論では議論し尽くすことのできないものも多いし、そもそも炎とは自然界の物質なのではなく、火天という神の身体であるという説もあり、この火天という神の身体に対して捧げ物をしていく儀式が護摩供養でもある、というのも仏教の一つの重要な考え方の一つでもあるが、これらについてはまた別の機会に紹介しよう。

いずれにしても触感として我々が触れることによって感じることができるものとは、このような特性をもつものである、と言うことが本偈では述べられている。

ひとつの燈明からも地水火風というものを見て感じることができる

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