2021.01.30
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

はじめに聞法という燈明を手にする

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第12回
訳・文:野村正次郎

はじめは聞法の明かりを灯さなければ

煩悩で転生して問題を大きくするのか

それを浄化し解脱の道へ向かうべきか

進退の選択すら決められず不明である

聴聞で知性の眼を清らかにせよ いざ

12

仏教は釈尊の時代から今日まで続くことばと思想の伝灯であり、仏教を学ぶということは戒・定・慧の三学処を学ぶことであり、本偈ではこの慧学処を学ぶためにはまずは聞法をしなくてはならない、ということを説いている。

戒学処を学ぶということは自己の行動、言動、思考法をどう制限すべきか、ということに関して釈尊がこうした方がよいと説かれた通りに身につけるということである。そして定学処とは、それらの戒学処を常に継続し、より洗練させていくためには、このような精神状態を継続すべきである、と釈尊が説かれているものをその通りに実践するものである。慧学処とは、そのようなすべての釈尊の説かれた言葉を聞き、その意味を深く考え、何度も繰り返し考えていくことで、このようにすれば苦しむこととなり、その苦しみの原因には自分たちの心や活動に問題があり、苦しみを望まないためには、自分たちの心や活動に、こういう問題があるので、こういうことは止めるようにし、こういうことをするようにする、ということを正しく判断できる知性を身につけることであり、本偈ではこの慧学処のはじまりが聴聞にあるということを説いている。この詩篇そのものは、顕教と密教の仏典をどのように聞法していくのか、ということが全体のテーマになっており、本偈から主として聞法とはどうすればよいのか、ということについての箴言が続いていく。

仏のことばをよく聞くことのできる人は、如来が説いた法を理解することができるようになり、如来の説かれたことばをよく聞きいれていける人ならば、如来たちがこういうことをやめた方がいい、と助言してくれたことをやめるようになり、それによって罪業を退けることができる。さらに私たちが追い求めるべきではないことへと心が惑わされることもなくなり、如自分の心を制御して自分自身で判断してものごとを正しく落ち着いて進めていくことができるようになる。暗い闇のなかに入っていく時、闇のなかにさまざまなものがあり、自分には眼があっても、明かりを灯すことができないなら、何も見えないし、必要なものを手にすることもできないように、人間に生まれて知性をもっていても、如来のことばという燈明を灯すことができないのならば、何が善なのか、何が悪なのか、という区別もできないままである。

如来の法を聞くということは、闇に惑う私たちが心の燈明を手にする、ということであり、これが仏教を学んでいくということである。『本生蔓』では、この燈明について、それは無知の闇を取り除いてくれるものであり、どんな泥棒でも盗めない最高の財産であり、どんなに恐ろしい敵をも倒すことができる最高の武器であり、最もいいことを教えてくれる最高の友であり、貧しい時も富める時も決して私たちを裏切ることも態度が変わることもない、最高の親友であり、どんな辛い病気も治すことができる万能の薬でもあると様々な表現をつかって聞法の功徳を讃えている。

私たちが仏教を学び知性を発展させていくためには、まず如来の説かれたことばのよき聞き手とならなければならない。そのことばはどんな人が話してくれるものよりも価値があるものであり、この地上で私たちが出会うことができる最高のものである。そしてそれは私たちに何かを伝えようと発せられた言葉であり、私たちはそのメッセージを真剣に受け取ろうとし、いつもその言葉を思い出していくことで、ひとつひとつの言葉も無限の意味合いをもっていることに気づかせてくれる。

聴聞というのは聞くたびに新しい体験をするものであるので、年齢に関係なく私たちは学問をすることができる

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