味は甘・醋・醎・辛・苦・淡の六種である。
舌識すなわち味覚が対象とするものが味処であり、これを分類すれば、甘味・醋味・醎味・辛味・苦味・淡味の六種がある。醋味とは酸味のことであり、醎味とは塩味のことであり、淡味とは味が薄いということではなく渋味のことであり、この味処の六味への分類が根本分類となる。
この六種をそれぞれ二つずつ組み合わせると甘甘・甘辛などと三十六種類の分類を作ることが出来るが、プールナヴァルダナ『倶舎論注』ではさらに、味覚が発生する時、舌識を活性化し直接刺激するもの、味覚が起こっていると同時に、味覚成分が溶解していくが身識を刺激しないもの、味わった後に身体や精神を活性化させ影響を与えるもの、という三種類に分類し、合計百八種類の味覚対象の分類ができるとされる。一方ヤショーミトラは『倶舎論疏』で、根本分類の六種を何個組み合わせるのか、ということで六十三種類の味を作ることができ、それを『チャラカサンヒター』などを根本聖典とするインド伝統医学では使用していることを紹介している。『阿毘達磨集論』などでは、これに根本分類に加えて、意に沿う味(可意味)・意に沿わない味(不可意味)・いずれとも言えない味(倶相違味)という味の印象による分類要素と、天然の味(倶生味)・調合した味(和合味)・熟成し変化した味(変異味)という味の出自の時間的要素による分類を加えている。
この味処の六味への分類は、これまでみてきた色処・声処・香処などの分類と同じように特性の分類なのであって、レモン味と蜜柑味、柚子味といった飲食可能な個物の味を分類したのでもないし、塩・胡椒・酸などといった味覚成分を分類したものでもなく、味の濃さや薄さとも関係なく、どの味がもっとも顕著に味覚として対象化されるのか、どの味が顕著な特徴的であるのか、ということによって六種類の項目に分けたものである。このことは色調などとも同じ原理となる。
このことをもう少し冷静に考えてみると次のようなことになる。たとえば私たちの視覚や聴覚はほぼ常時働いているのであり、常時何らかの視覚や色処や声処を捉えているのであり、青黄や長短といった何らかの色処に対して視覚が働いていないのは、眠っている時のみである。それ以外の時にはほぼ常時継続してはたらいていることは誰にでも分かるだろう。これと同じように嗅覚や味覚も同じように眠っている時間以外にはほぼずっと働いているのであり、常時何らかの香処や味処を捉えている。
しかしながら私たちは特殊状態が強い香処や味処がある場合のみ、匂いがする、味がする、と錯覚しており、ただ息をしているだけでは匂いがするとも思わないし、無味無臭の水を飲んでいる時や何も口やせず舌に置いていなければ、味がする、とは思っていない。透明なコンタクトレンズをしているだけでは、何かを見ているとも思わないし、防音工事をした無音室に入っている時には、何も音がしていないとしか感じていない。しかしながら、こうした無味無臭と呼ばれる状態や無形無色と呼ばれる状態というものが存在していると感じていることは、これらの仏教の外部物質の定義や分類からいえば、錯覚に過ぎないということになる。
透明なコンタクトレンズを通じて何かを見ている時には、透明な色とは白という顕色のひとつであり、白を見ている、ということであり、無音と思っている私たちの聴覚は、自らの鼓動や環境音などを聴いているのにも関わらず、それを音として感じていない、と知覚しているものに対する判断をしそのように知覚内容を修正しているが、それはあくまでも後から修正したののに過ぎないのであって実際に起こっている知覚内容とは異なっている。
これと同様に何も匂いが感じられない室内にいたとしても、呼吸をしている限り鼻識は何か常に嗅覚によって認識しているのであり、好悪つけがたい等香と呼ばれる、匂いの要素の弱いものを嗅覚によって捉えていることは事実である。
同じように味覚もまた何も食べていない、何も飲んでいない状態であっても、常時何かの味を経験しているのであり、味覚が継続しているその限りにおいて、完全に味処がない状態などあり得ないということになる。ただ私たちが何も食べていないで、何も飲んでいないでじっとしている状態において感じている味覚というのは、あまりにも弱いものであり、その味処は、あまりにも微かな味成分しか感じていないので、「味がない」と思っているのに過ぎないのであり、私たちが「味がない」と感じている状態は、このような観点から考えれば、味は明らかにあるのにも関わらず、それが微細で刺激の度合いが低いことを理由に「味はない」と感じている錯覚に他ならず、それらはすべて知覚に対する誤った判断を継続していることによって起こっているものである。
このように私たちの知覚の殆どが知覚を敢えて記憶しないようにし、錯覚の判断を繰り返しながら稼働しているものであるが、この事実を上手く利用したものが、所謂ノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンである。ノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンは、音として認識される空気振動をなくすために真空状態を耳の周りに作っているわけではない。耳の周りを密封し、外部の環境音とは逆位相の波形をもつ音を電気的に作り出し、それを外部の音量より少し大きめの音量で再生し、逆位相の音響現象の音量で、外部の環境音をかき消しているだけで聴覚に錯覚を起こさせている。だからこそ、ノイズ・キャンセリングするための逆位相の音をずっと聴いていれば、その分だけ聴覚は通常の音が少ない状況よりも敏感に働いているのであり、長時間大音量で逆位相の音を再生し、それを聴覚神経に聞かせているので、何も音は聞こえないように錯覚しているが、通常時より過度に刺激を与え負荷がかかっているので聴覚も休まることがないので、疲労し、それが過度に負荷を与えすれば難聴になってしまうのである。これと同じようにたとえ味がしないように感じるものであっても、味覚にも調味料や添加物などを使って常に味覚器官の疲労や麻痺が起こり、微かな味を知覚できなくなり味覚障害を起こしてしまう。
現代の日本では食料不足による飢餓もないし、平安貴族より遥かに贅を尽くした食生活を行なっている。国土が狭いので輸送や冷蔵技術も発展しているので、広大な国土に住んでいる人たちよりもはるかに非常に新鮮な野菜や採れたての果物を食べることもできる。あまりにも美味なるものを食べ過ぎて、味覚が麻痺しているせいか、食事が普通に食べられるだけで幸福感も抱けない人たちも多い。災害があって避難生活を余儀なくされても、寿司が食べられない不平不満を爆発させる人さえいる。まさに飽食と過食の時代を現代の私たちは生きている。
これに比べると仏典にでてくる味処は、非常に単純なものであり、決して食品や飲料や味覚成分の個物の分類ではない。乳製品の最勝なる醍醐であれ、神々たちの飲料である甘露であれ、百の味をもつご御馳走であれ、すべて味覚の対象であることには変わらないし、味の特殊による分類もすべて程度や混合の度合いなどの相対的な味に過ぎないものである。私たちが美味しいと感じている味覚にしろ、美味しくないと感じている味覚にしろ、六種の味処のいずれかに過ぎず、私たちは人間界でどんなに変わった食料を探していき、美食を追求しようとしなくても、既に人間界には存在しない、神々しか飲めないような不老不死の液体と呼ばれる甘露の味を日常から味わっているのであり、私たちは如来や菩薩たちが味わっているものと同じものを味わうことが既にできている。たとえ食料や飲料を摂取しなくても、私たちの味覚は停止しているわけではない。ただその味覚に大きな刺激が与えられない限り、気づきもしない不幸な心理状態になっているだけなのである。
味覚に精神を集中させて味覚を鍛えるということは、微かな味わいを知るということであり、味覚を鍛えるのならば、ちいさな個物でも無限の味わいを感受することができる。チベットの僧院では小さな頃から食事をする際には、まずその食料を諸仏に捧げて供養し、同時に一部を動物や餓鬼たちに施すために残しながら、百の妙味のする豊かさを禅定の力によって享受するという感覚を養うように訓練をしていく。この百の味よりなる豊かな味わいは、貪欲や瞋恚を刺激して増幅させるために味わうのではなく、すべては如意宝珠よりも貴重なこの人間の身体を維持するための薬品を服薬すると観想しながら味わうべきだとナーガールジュナも教えている。仏教が説く味処の分類は、私たちがどんな宝石よりも貴重な身体を維持する常に最高の料理の味を享受できていることを教えてくれる。