2021.01.21
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

仏弟子としてスタイルを洗練させてゆく

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第11回
訳・文:野村正次郎

行動を洗練すれば他者の意にも適うだろう

口数を減らすのなら傷つけも邪魔もしない

信勤念慧を日々揺らがぬものと高めてゆき

月が満ちていくように功徳も増長してゆく

身口意の三門で慎み深めていくべきである いざ

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仏教を学ぼうとする私たちが学ぶべきこととは何かといえば、それは釈尊によって戒・定・慧の三学処を学んでいきなさい、と説かれている。前偈ではこの戒律というものが土台となるということを説いていたが、戒律という三門の制限状態を一心不乱に継続すること、これが定学処と呼ばれるものであり、本偈ではこれについて述べている。

この定学処とは、善なる行動・言動・思考に制限を課したまま、その状態をできるだけ長く継続させ、より洗練させ努力しないでも無意識のうちに正しい行動や正しい言動や正しい思考をなすことができるよう高めていくことであり、その最高の状態が如来の禅定であるということになる。

まずは私たちの行動としては、まずは不殺生・不偸盗・不邪婬といった身業に関する戒で自らの行動制限をし、さらに出家者や在家者でも不飲酒や非時非食などの様々な行動制限を追加して自ら課してゆき、それを常に護りながら自分たちの行動を洗練させていかなければならない。これが身業に関する定学処の修習ということになり、これによって最終的に得られるのは、如来の身体的な活動ということになるのである。

さらに言動としては、不妄語などの基本的な制限を課した上で、さらに不要に多くのことを話したり、大声で話したりすることもなく、なるべく最小限の言葉数で、声の調子もほどよく、他者にとって美しい心に染み入るような言葉づかいで言動を洗練させていかなくてはならない。これが語業に関する定学処の修習ということになるが、これもまた最終的には、如来の言語的な活動のように洗練されたものへと高めていくことができるのである。

さらに思考としてはまずは他者を害そうと思ったり、業果は存在しないと思ったりする誤った見解を捨てて、その上でさらに業果に対する確信(信)、善に対する精進(勤)、正しく対象に対して精神を向かわせて対象を忘れてしまわない記憶の保持(念)、正しくものごとを峻別することができる慧をはじめとする善なる思索を追加し、その継続状態をさらに高めていかなければならない。そしてこれもまた最終的には如来の一切相智のようなものへと高めていくことができるのである。

そしてそのことによって最初は何も見えない新月が満ちていき満月になるように、最初は何も身口意の功徳はなくても、継続して洗練させ修練を繰り返していくことにより、継続的に洗練された行動・言動・思考をとることができるようになるのであり、そのためにはそれらの業が出入りする門をきちんと制限して常に慎み深く心がけ、その慎みを深めていく必要がある。

私たちがどのように行動するべきか、そしてどのような言葉づかいをするべきか、どのような思考をしてくべきか、その規範のすべては如来によって説かれているものである。たとえば食事というものはどのようにして食べるべきなのか、着物というのはどのように着用すべきなのか、座っているときにはどのような姿勢であるべきか、立って歩くときはどのように歩くべきか、そのような非常に細かいことまで戒では定められており、それは項目としては大変多くのことを実現していくことができるが、その基本方針は他者に迷惑をかけたり、他者の心を傷つけたり、他者の思いに偏見を押し付けたりしない、という他者の幸福を望むその意思に従っているものである。

最高なる行儀作法とは如来の行儀作法であり、私たちはそれを目指すためにまずは自分たちの行動や言動や思考形式を制限し、たとえば大きな音をたてて食事を動物のように貪ったりしないとか、汚らしい食べ方をしないようにするとか、食事中に大声でしゃべらないとか、相手に聞こえるために過不足のない音量で話すべきであり、大声で話すべきでもないし、急いで早口で饒舌にしゃべって自己主張するべきでもない。さらには誤った考えや偏見を相手に押し付けて、それを権威として筋の通っていない論理を押し通すべきでもない。しかしこれらのことはある程度制限して、よくないことをしないようにしても、それを洗練させていき、他者からみて心に歓喜や感動が呼び起こされるほど洗練していくことはそんなに簡単なことではないことも事実であろう。

他者から見て恥ずかしくないように慎み深くする、ということと、他者から喜ばれるような慎み方をするということはかなり異なったことである。両方とも他者に迷惑をかけないとか、他者を傷つけないということは同じであるが、前者はあくまでも社会的な行儀作法であって、後者は他者に喜びを与えようと自ら心がけ日々の努力によって洗練させ、その実績もまた蓄積していかなければならないことである。

正しい歩き方をする、ということだけでも実はそんなに簡単なことではない。一流のファッションモデルたちは正しく洋服を着て、正しく歩いたり、正しい姿勢をするだけで人々を夢ある美の世界へと誘うために、日々洗練されたスタイルを追求して努力をしている。仏教の目指すこともこれと同じことを身の装いだけではなく、言葉づかいや、思考形式でも高めていくということにほかならない。

戒律を守れば身体は美しくなり、禅定を実現すれば超越的な感覚が身に付いていく、という仏教では言われているが、これは単に制限をかけた所作をするだけではなく、細かいところまで気遣いが回るように常に心がけることで、完璧なスタイルというものをつくっていくことなのである。そしてその如来たちの完璧なスタイル、それこそが衆生を魅了して利益し、寂静なる常楽へと導いていくための最も顕著ですぐれたスタイルであるということになる。

私たちが仏弟子として学ぶべきはお手本は釈尊の弟子の筆頭であるシャーリプトラの慎み深さである


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