香は好悪と等不等で、
四種類へと分類できる
鼻識の嗅覚の対象となるもの、それが香処である。これは嗅覚器官である鼻が呼吸時に取り込んでいる四大元素を原因として知覚されている現象のことである。
香の根本分類としては、好香・悪香があり、これは好い匂いか、悪しき匂いかであるが、それをさらに匂いが顕著ではないものを等香とよび、顕著なものを不等香として細分して、香処は好等香・好不等香・悪等香・悪不等香の四種となる。等香・不等香という区別は、匂いが顕著ではないものを等香として、匂いが顕著なものを不等香のことであるというのは、プールナヴァルダナやヤショーミトラの『倶舎論』注釈書によるものであるが、クンケン・ジャムヤンシェーパは、この匂いの強度については、物質それ自体がもともともっている匂い、すなわち倶生香に関するものというよりは、和合香、つまり香を調合した場合に特に重要となる特性であると説明している。
『倶舎論』ではこの四種類の分類が基本となり、本偈でもこの立場をとっているが、好香か悪香かのどちらとも言えないものを等香(平等香)として、香の根本分類を最初から三つに分類する学説が存在していたことは『倶舎論』自体にも異説として紹介されるが、注釈者はこの異説は『倶舎論』の本旨としては採用できないとする。
本偈で示されるものは、『倶舎論』に基づく四種類の分類であるが、『阿毘達磨集論』では香処を好香・悪香・平等香・倶生香・和合香・変異香という六種に分類している。
このうち最初の好香・悪香・平等香は嗅覚が捉えている大種、すなわち匂いの成分を活性化させているものが好香とし、活性化を妨げているものを悪香であるとし、そのいずれもなさないものを平等香(等香)とし、これは平等香を第三の項目とするものであるが、香りの良し悪しを決定する要素が、嗅覚が捉えている匂い成分が、その他の元素を活性化しているかどうか、ということに求めているというこの説は興味深いものである。これは鼻でよい香を嗅いだ時に私たちがよい香であると感じるのは、その香りを構成する成分が、さらにその成分を活性化しているということであり、鼻腔内の粘膜の元素などもそれに呼応するように反応し、よりその香を享受したいという印象を生み出すようなもののことをよい香であると説明している、ということである。この匂い成分の活性化という香の良さ・悪さについては『倶舎論』の方の好香・悪香についても同じであり、これらの考え方の枠組みは香それ自体がもたらす効果を表したものであると言える。
一方、倶生香・和合香・変異香というのは、香それ自体の時間的な変化を表したものである。香処は、ほかの物質と同じようにその生成物質をある時間をかけて認識するものである。鼻ですこし香をかぐ、というのはその香をかぐための僅かばかりの時間が必要となるのであり、正しい嗅覚と呼ばれるもの、すなわち鼻識の現量とは、その対象との同時性がひとつの要件ともなっているが、嗅覚の対象もまた、知覚されていく時間をより長いスパンで考えていくのならば、時間の変化というものを想定しなければ、その香りを特定することができない、ということも言えるわけである。このような考えから、倶生香と呼ばれる、栴檀の香のように元来の物質そのものがもっている匂い、和合香と呼ばれる、香料な香水などのような調合した合成された匂い、変異香とは、マンゴーのように熟していくことで常に変化していっている匂い、という三種類の香処を特定することができる。
『倶舎論』は基本的には毘婆沙部の教義にもとづいて四種類に分類し、『阿毘達磨集論』では、経量部・唯識派の教義にもとづいて、六種類に分類し、分類の数は異なっているが、分類の視点としてあげる特性がどのようなものなのかという点に関しては、毘婆沙部も経量部も同じように考えている、とジャムヤンシェーパの未完成の論理学の入門書で述べられている。本偈をもとにジャムヤンシェーパの弟子のセー・ガワンタシの記した『セードゥダ』では、香処をまずは倶生香・和合香の二つに分類し、それを好香・悪香の二つに分類して四種の香処を自説とし、等香・不等香という香の強さについては言及していないが、特に師弟間で矛盾した考えをもっていたというように考えるべきでない。
既に見てきた色処・声処のところでも触れたが、いづれにしてもこの香処の分類もほかの分類と同様に個物の分類ではないということは極めて重要な考え方であると思われる。何故ならば個物としての香を追求していけば、物質は無限に存在するので、物質のもつ匂いもまた無限に存在して際限がなくなってしまうからである。そしてそのような個物の分類をしていくことは、同時に多くの煩悩の対象を考えることであり、ここでは白檀の香であれ、薔薇の香であれ、蓮華の香であれ、伽羅の香であれ、すべてはよい香りというだけであり、それ以上のものではない、ということを教えている。
仏教において最もよい香り、顕著な香り、最高の香りとは戒律の香りと呼ばれるものである。チベットの線香や焼香供養で使われる香には、天然の薬草をさまざま混ぜた上で、三つの白いもの・三つの甘いもの、というものを混合して生成する。三つの白いものとはバターと乳とヨーグルトであり、三つの甘いものとは蜜と黒砂糖と白砂糖とである。儀式をする時にはまずはきちんと戒律を守っており、さらにその儀式を行うために必要な灌頂を授かり、日々実践している僧侶たちによって、本尊を勧請し、サフラン水を洒水し、本尊による加持をした上で、出世間の供物として煙や狼煙をつくりださなくてはならない。その香は、如来や菩薩が通りすがるだけで、食香と呼ばれて香りを食料とする餓鬼たちの心を癒していく、如来の姿と如来がいる場と同じ香りなのであろう。戒律の香りは決して衆生を害することなく、香の成分は善なる営みを活性化し、常に慈悲心に満ちすべての煩悩を鎮める香りにほかならない。私たちはいつの日か佇んでいるだけで衆生を救済する如来の身体の香りを実現しなければならない。そのために香処の特性を正しく知り、まずは衆生を害したり煩悩を増長させるような悪臭を放たぬように心がけたいものである。