2021.01.11
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

震える他者の身体、記憶に残響する言葉

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第8回
訳・文:野村正次郎

声には八種のものが有る

執受している大種に由来する

有情に対する表現なのかどうか

意に沿うものかどうかで四種ある

執受してない場合もまた同じである

8

疲れて眠っている時以外、私たちは常に何か様々なものを見ているし、様々な音を聞いている。聞こえてくるすべての音は、何かの振動であり、物質が振動し、その振動が他のものを振動させ、その波紋が耳のなかの薄い膜へと伝わってきて聴取したものであり、これを音とか声といい、この聴取している現象を「声処」という。これを分類すれば八種となる。

まずはある音響現象がある時、その音は生物が自分の身体を使って何かを振動させたものかどうかという視点で区別することができる。鳥たちの歌声、ちいさな虫の声、人間の話し声、これらのすべては生物がある意思をもつことによって作り出した音であり、自らの身体を震わせ発生させた音響現象である。一方、スピーカーから聞こえてくる人の声や川の流れる音などは、その音が発生しつつある時に生物の身体の一部がそこに関与し発生しているわけではない。生物が作り出した音は、その音の存在とその生物が音を立てている行為とは区別できない。これらは生物が所持するもの---執受している物質元素(地水火風という四大種)が他の物質と同時に振動していることによって組成されている音なのであり、これを「衆生が感官で執受する大種を原因としている音声」(有執受大種為因声)と呼び、そうではないものを執受してない「衆生が感官で執受していない大種を音声」(有執受大種為因声)と呼ぶ。これはその音が私たちは生物の身体の震えに由来するものかどうか、という発生源となっている物質によって音を区別したものである。

これを更に、その生物が他の衆生に対して何か伝えたいことを表現し、音それ自体が意味とともに理解すべきものかのかどうか(有情名・非有情名)で区別することができる。何か伝えたい特定の内容を指示しているものが言葉であり、特に伝えたい対象を限定して指示していない単なる音として発生させている場合には、それは単なる音ということになる。たとえば悲しみや喜びを表現する美しい言葉を旋律にのせて歌っている歌声は、有情に対する表現(有情名)であり、言葉を使わず同じ旋律を単に楽器だけで演奏している場合には、有情に対する表現ではないもの(非有情名)であり、前者は後者に比べ強い表現力や伝達力をもっている。

さらに聴取者がその音を聴取した時、意に沿った快適なものなのかどうか(可意・不可意)ということによって音をふたつに分けることができる。言葉で表現している音声でも、美しい歌声は前者であり、罵詈雑言は後者ということになり、言葉で表現していない音声にも、笛で奏でている旋律は前者であり、拳骨で壁を殴っている音などは後者ということになる。

このように私たちが耳を傾けて聴いている音響現象には、生物の身体の震えによってできているのかどうか、何かを訴えかけている表現なのかどうか、そしてその音響現象を聴取する私たちにとって意に沿うものなのか、という三つの特性で分類し、二の三乗で八種類の音に分類することができる。聴覚が存在する限り、我々は八種類の特性に分化できるすべての音を聞くことができるのであって、ある聴覚がそのうち何れかの種類の音は聞き取れない、ということはない。しかし私たちはこの音の八種類のすべての項目を想定しながら音を聞き分けるなければいけないということではない。この分類は色処の分類と同じように個物の分類ではないのであり、音の特性をあげたものであるからである。

この分類から知るべきことは、そして私たちが聞くべき音、記憶するべき音が、如何なる音なのか、ということである。それは三つの特性によって特定できるものであり、他者の衆生が身体を震わせて作ったもので、意味を伝えるために語りかけられ、私たちの意に沿うように発せられたものである。ある音がこの三つの特性を兼ね備えるとき、私たちの聴覚はそれを注意してきくべきであり、その聴取体験は我々にとって善なる印象を与えることができる。そのような三つの特性を兼ね備えた音響現象の代表的な例、それは如来が説いていることばにほかならない。如来の発した仏教は、如来の身体が震わせたものに由来し、私たち衆生のために如来が表現したものであり、それは私たちの意に沿うよう慈悲という善意で発せられたものである。

「有為のすべては無常である」「有漏のすべては苦である」「すべてのものは無我である」「涅槃は寂静である」というこれらの音響現象は、このような三つの音響特性をもつ空間と時間を支配している音響現象にほかならない。私たちはこの仏たちの身体性をもつ、善意の表現であり、私たちの意にそう形で発せられた音を聴覚で捉えきちんと記憶し、その音に込められているメッセージに自分たちの心を共鳴させ、自らの思惟に仏たちが込めているメッセージを再現しなくてはならない。そしてそのことが仏教を学び、仏教を実践するということである。釈尊は、縁起の核心を説いた『縁起心頌』という音列を如来の法身の舎利であると説かれ、「この縁起を観ている者は、如来を観る」と如来の言葉を聴く者が仏となることができる、と説いている。如来が利他のために示現した身体を震わせて、その音に私たちに伝えたい意味を込めて表現した、私たちにとっても心に沁みていき、すべての希望を叶えていく音響現象、それが仏教という音の記憶にほかならない。私たち仏教徒にとって聞くべき音、記憶しておくべき音、来世へとその記憶を繋げていくべき音、それがどのようなものなのか、ということを声処の分類が特定しようとしている如来のことばそれ自体の特性なのであろう。

釈尊のことばの代理人であるダライ・ラマ法王をお迎えする時には、音の供物が捧げられる。

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