師のことを敬って 秀れた人に嫉妬せず
劣った者を慈しみ 心のなかを統御する
外見は賢者にも見えない 堅物と思われる
頼まれても応えられない しかし問題はない
外面は温和なのに心が荒まないように いざ
何かを学ぶという姿勢は、自分が知らないこと、そして自分には至らない点が具体的にあるということを確認することでもある。あたらしいことを学ぶ場合でも、また既に教えてもらったことを思い起こして復習する場合であっても、自分はそれについてよく知っている、そんな考えをもつようでは何も学んでいくことなどできないだろう。
何かを教えてくれる師たちは心の底から尊敬できる人たちであるし、彼らが教えてくれたことをふと思い浮かべてみる。するとその時には全く分からなかったあたらしいことが見えてくるのである。学びて時にこれを習うことは悦しいことである。何故ならば私たちはどんな時であっても、常に新しい発見ができるからである。
同じことを学んでいる人もいるし、自分よりもはやく習得して随分と先を歩んでいる人もいる。どんな人であっても私たち自身より秀でた性質をもっているものであり、その秀でた性質を私たちは嫉妬すべきではない。同じ時を生き、同じ場所で同じことを学んでいても、彼らは自分たちよりも何かの点で自分たちよりも優秀なのである。だからその人たちのよい点を自分も身につけられるようにお手本にしてみればいいのである。彼らを卑下して自分の立ち位置を高めようとすべきではない。そんなことをしても何も自分が成長することはできないからである。
同じ空間に生きて、同じ情報や環境を享受していながら、何故かものごとをうまくできない人たちもいる。出来の悪い人たちを見れば、時には何故彼らはこんなに出来ないのか、と思うこともあるだろうが、自分たちよりも何かの点で遥かに優秀な点はたくさん持っているはずである。自分も完璧にすべてのことができるわけではない。だからこそ、すべての人はお互いに慈しみあい、助け合って暮らすべきなのである。私たちが助け合ったり慈しみあったりできないのなら、私たちは何かを学ぶことなどできないし、何かを教えてくれたり手伝ってくれる人も周りからいなくなってしまうだろう。人にやさしくしてもらい嬉しく思うなら、その喜びをまた別の人に与えるとよい。お世話になった人に恩返しができなくても、自分がしてもらった同じことを別の人にしてあげればいいのである。
何かを学びつづけることのできる人は決して賢者であるとか、専門家であるとか、その道の権威であると呼ばれたり、報酬や賞賛を享受することばかりを考え暮らしていくべきでない。何かを知ろうとすることは、その知識で商売をしたり、名声を得るためにすることではない。そのことは知るべきことであり、そのことをよく知れば、私たち自身がすこしでも進歩を遂げることができるからであり、それらはとても個人的で私的な動機に基づくものであるのである。木偶の坊のように生きて、石頭で世の中とうまく付き合えない堅物だと思われてもよい。さまざまな頼みごとをいってくる人たちの頼み事のすべてに応えられなくても問題はない。自分たちの心が静寂を保てること、そしてその心の静寂から温かい気持ちを周囲にもたらすことができることが大切なのである。心のなかには荒廃した風景をもちながら、外面だけを繕って生きるべきではない。
人生は短く、出会える人たちは限られている。いま出来ることにも限界はある。出世間の学問を完成させるのは容易ではないが、絶望することもなく、できる限りのことを淡々と進めていく。このことだけがすべての仏たちが如来の境地を実現するスタイルである。すべての苦しみを無くしたい、そんな崇高な志をもつ不器用な一歩一歩、それが仏道修行を歩む者の足取りなのであろう。