2020.12.26
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

如来の身体の色彩と輪郭を学ぶ

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第7回
訳・文:野村正次郎

色には顕色・形色の二種がある。

詳しく分類すれば二十種となる。

青黄赤白、雲煙・塵霧・明暗・影光、

長短・方円・高低・正不正がそれである

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眼識が捉えるものが色処であり、これを分類すれば、色彩である顕色と形状である形色の二種がある。これを更に細分すれば、色調たる顕色には、青黄赤白の四根本顕色、すなわち四原色と、雲煙、塵霧・明暗・陰陽の八支分顕色、すなわち派生色/特色とで合計十二種があり、一方形色には、長短・方円・高低・正不正の八種があり、眼識が捉える色処は合計二十種に細分できる。

ここで述べられている色処の分類は、そのような組成された個物の分類ではないのであって、視覚に映像として表象される、個物のもつ特性によって分類したものである。もし個物を博物学的に分類しようとしても、それは無制限に存在するので、具体的に視覚対象に映像化されているのかという観点から、線の輪郭(形色)と色調(顕色)にすべてを集約させて映像となるものがどのように構成されているのか、という視点から分類したものなのである。

顕色と形色には、四句分別があり、顕色であるが形色でないもの、顕色でないが形色であるもの、顕色でも形色でもあるもの、顕色でも形色でもないものという四句であるが、それらは順に、顕色であるが形色でないものは青黄赤白であり、顕色でないが形色であるものとは、長短・方円がそれであり、顕色でも形色でもあるものとは、雲・煙・塵・霧がそれであり、顕色でも形色でもないものは地水火風などの四大種がそうである。

色調である顕色を分類すれば、根本顕色・支分顕色の二種があるが、所謂これは原色(primary colors)と合成色(process colors)に相当する。根本顕色に白ではなく黒を数える場合もあるが、これはグレースケールのことであるのでどちらでもあまり変わるものではなく、通常は白の方を数える方が一般的である。緑色・橙色・藍色などの色彩は、原色の混合によって合成可能であり、原色の顔料の濃度を減少させてゆく減法混合法は現代の四色印刷で使用され、青(シアン)・黄(イエロー)・赤(マゼンタ)に明度を減少させる黒(スミ/ブラック)を合成し複雑な色彩を表現する。一方ディスプレイのような元が黒いものに発光物質を用いて色彩表現する場合では、赤緑青といった三原色の加算的に合成する加法混合法を使って色彩を表現する。いずれにしても原色の合成(彩度の調節)に明度を加え、すべての色調を合成できるので、色彩の分類としては原色と合成色というのが、基本的な色彩の分類となり、緑や橙などは原色で合成した支分顕色ということになる。

ここでは雲煙・塵霧・明暗・影光などを八つの支分顕色を特色として数えるが、それぞれ雲の色、煙の色、塵埃の色、霧の色、星や炎などの輝度の高い明るい色・その逆の輝度が低い暗い色・光源による照射が遮られた影の色・太陽光線などが照射される時に起こる照度の高い光色、これらの八つは、我々の日常生活でよく眼にする色彩であり、これらを合成色のなかでも特色として別立てして数えている。それが何故かといえば、雲色や煙色などは、視覚器官が接近しすぎた場合、その色彩が視認できなくなる可能性があり、それらの色彩は存在しないという誤解が生じる可能性を払拭するためである、とヤショーミトラの『倶舎論註疏』や『阿毘達磨集論』の注釈者たちは説明している。これらの特色として数えられる色調は、身近に存在している色調であり、それらはどんな原色の組み合わせによって合成されているといえるのか、ということを説明するよりも、別途特色とした方が利便性も高いこともあり、これらの特色にさらに空の蒼色を加える説もあるようである。

形状要素を表す「形色」の方は、長短・高低・方円・正不正といった形状を単純化する八要素で分類される。長短は二次元的な長さ、高低は三次元的な高さ、方円は角の丸み、正不正は各々の辺が等分であるかどうかを示す要素である。これらはそれぞれが色調の場合と同じように、あるもののもつ特性のうちの顕著な性質を相対的な比較によって表現したものであって、実際には誤差があっても、正方形や正円、正三角形などに近似するものを正とし、そうでないものは不正とするのである。

この顕色・形色の規定は仏教論理学の基礎の最初に学ぶべき課題であるが、これらの教義を学ぶさいに問答をする時には、如来の正法を象徴する白法螺貝の色調が白であること、宝生如来の身体の色調が黄であることや、無量寿如来が赤であり、不空成就如来は緑であり、文殊師利が橙色であるといった如来たちの身体の色調を具体例に原色や合成色の関係を学ぶ。またインドラニーラ(サファイア)やパドマラーガ(ルビー)などといった宝石の放つ色彩について議論をしたり、白馬の色彩について議論をしたりするが、それらは単なる普通のものではなく、如来の身体や曼荼羅世界に存在している稀有なるものたちばかりである。これらの色彩や輪郭線は、如来の功徳そのものであり、それらを想像しながら色処の分類を学んでいくこと自体が、修行者にとって無量の功徳を積むこととなる。そしてそれを繰り返し、未来において如来の色身や宮殿である曼荼羅を自ら生起させることができるようになる。仏画を描く時にまずは輪郭を描き、その上で鉱物を粉末にした顔料で着色するように、如来の身体の輪郭と色彩を、菩提心という意思の力で合成し、その姿によって衆生を救済する時にこの色処の合成法は必要となるものである。しかるにこの色処の分類とは、単なる受動的な視覚の映像の分類に留まるものではなく、未来時に無数の衆生の視覚の対象となる如来の身体の輪郭と色調の合成法を知るという積極的で自発的な取り組みのための第一歩でもあるのだろう。

如来の姿はまず経典に定められている比率で輪郭線を描き、それを着色するという方法で描かれる

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