2020.12.04
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

物質の所在と価値という幻想

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第6回
訳・文:野村正次郎

物質には外部・内部の二つがある。

外部の物質は色などの五つである。

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知が対象領域とし得るものには、抽象と具体があり、具体である現象には、物質・精神・その両者ではないものがあり、原子の組成体たる物質を分類すれば、外部物質と内部物質に分類できる。この分類は、その物質の所在が我々の身体の外部にあるのか、内部にあるのか、ということに基づいている分類である。この詩篇では外部物質とは色・声・香・味・触の五境であり、内部物質は眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根のことであるとしている。

身体の内部の物質と身体の外部の物質は、知や認識によって接触することで知覚現象を起こし、対象の認識を発生させているものであり、内部物質と外部物質とは接触し交換することが可能であり、身体の外部に存在している外部物質を享受して補填することによって、内部物質を維持することができるのであり、これらの物質の交換や反応によって、知が様々なものを享受し、その享受によって楽・苦といった感情が発生するのである。

物質の定義は原子による組成体であるが、これは五蘊のなかでは「色蘊」に帰属している。五蘊のひとつである「色蘊」の定義を漢訳では「変壊させるが可能である」(rūpyate)と解釈することは原語の「壊す」という動詞由来の語義分解を行い、倶舎論などでは組成したものを破壊して別のものへと変化させることができるもの、という意味を付託し、この色の定義は極めて有名なものであるが、チベット語訳ではこれを「破壊する」という意味では解釈することはなく、「形状化可能となる」という意味で解釈しており、物質と色蘊との相違点、色蘊にはどこまでのものが帰属しているのか、ということについては仏教内部でも様々な議論がなされている。物質や色蘊とはどのようなものなのか、ということは自然科学あるいは物理学の探究の基本的な問題であり、質量と物質、空間と物質との関係、それらが時を質量として有しているのかどうか、といったことをはじめとして、それらをどのように定義するのか、は、形而上学の基本的な問題であり、仏教の哲学に限らず大変知的な議論が展開されている問題である。近年では物質のもつエネルギーに逆行し、素粒子の逆の質量をもっている反粒子から組成させる反物質を人類が組成することができるようになったりし、この物質についての科学的考察や哲学的考察は、自然科学の発展とともに現在も研究が推進されていることである。

仏教における物質についての考察で、物質を外部物質と内部物質に分類することは、身体をもつ我々衆生がもつ身体が物質であることと、身体の外部物質に対する知覚や思考によって、我々の煩悩が増加したり、知覚に錯誤が起こったりすることが問題になるからである。通常私たちは自分たちの身体が身体の外にある外部の物質と同じような物質であるとは考えていないのであり、自分たちの身体は何か特別な物質であると我執によって考えている。身体の外部の物質が生成されたり、消滅したりすることに一喜一憂する者はすくないが、「私の身体」が老化したり、精神の所依として拠り所をなすという役目を終え、「死」という現象が起こる場合には、何か特別なことが起こっていると考えがちである。身体という物質を維持するためだけのことを健康であると考え、身体という物質を美化するためのありとあらゆる営為を行いながら暮らしている。通常私たちは、内部物質は「これは私のもの」という所有欲によって歪曲して思考しているのであり、外部の物質のように冷淡に扱っているわけではない。また外部の物質についても「私」に対して何か特別なものをもたらす特別な物質が存在していると考え、様々に勝手な妄想を膨らませて、その物質を他者と交換することに大きな価値を見出しており、物質をランキングしたり、特定の身体をもつ特定の人格と特定の物質を結びつけたりして、ほぼ物質に支配されているといってよいような生活を営んでいる。

多くの物質に囲まれ、存在数が少ない物質を希少な物質であると考え、たとえば砂糖の結晶とダイヤモンドは同じ組成構造をしているが、ダイヤモンドは価値があるものであり、砂糖の塊は料理にくらいしか使えないものであり、砂糖の塊のために入念に泥棒をする計画などを企てようとする者などどこにもいない。黄金の塊や砂と聞くとおかしな感情を起こしたりするが、砂や石ころが転がっていると聞くと特段気にしないのである。これと同様に水やタンパク質や炭素でできた化合物である濡れた木の枝が道端に転がっていても気にはしないが、人間が道端に転がっていたら、そのまま見過ごしていいのか、どうかといった不思議な感情が起こるものなのである。

このように自然科学などを追求しようとする科学者ではなくても、私たちはこのように物質に対して、異常にして執拗なる執着心をもっているのであり、物質という存在について何か極度な期待をもって暮らしている。物質と精神という言葉を聞くだけでも、精神とは異なった何か私たちとは無関係な向こう側にある特別な事態を期待する。本来私たちが所有して移動することができる物質は、この肉体以外には何もないにも関わらず、その肉体を維持するために摂取し所有する外部の物質こそが物質である、と思い、より多くの物質を集めようとして、より多くの物質でできた巨大な家や屋敷などを所有することが幸福につながるといった錯覚を起こしている。しかし物質とは何かとかその本質のなかで注目すべきことは何かということを問いかけるとき、それらの妄想のすべてが無益であることが露呈する。

外部物質とは色・声・香・味・触の五境であり、内部物質は眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根のことである、というこのことは情報としては当たり前の分かりきったことであると思うかもしれない。しかしこのことを如来たちが説いていることには理由がある。その理由はそれらが物質である、ということにおいて均質なものであり、何か必要以上に妄想すべきではないものである、ということを教えている。

幸福や不幸というものは、物質が実現するものではないのであり、物質を対象とする認識によって起こされる感情こそには幸福感や不幸というものがあるが、実は物質それ自体が不幸(苦)そのものに他ならない、ということが「苦諦を知りなさい」という教えにほかならない。

私たちの不幸そのものである物質には身体の外にあるものと身体そのものとの二種類がある。身体の外に存在する色・声・香・味・触は、身体が有する内部物質をそこに向けさせることによって、様々な認識や感情が生まれているが、それらを聖者たちが見るならば、それはすべて苦しみに過ぎないのであり、私たちは幸福をもとめているつもりで物質を求めているが、それは不幸を求め、不幸を集めていくのに過ぎない。そしてその愚劣な営みの原点は、私・あなた、こちら側、向こう側、内側・外側といった区分分けの上にさらに過度な期待と思い込みを巡らすことに由来する。物質や色蘊というものを身体の内部と外部に分けることができるというのは、こうした愚劣な幻想を捨てさせるための第一歩にほかならないだろう。大切にしていた黄金の塊が、ある日砂糖の塊になり果ててしまうことは現実に頻繁に起こることである。「猫に小判」というが、私たちはこの物質的な身体というものは他者を利する活動をするために最適なものである、ということを全く分かっていないのであり、まさに「猫に小判」の状態といってもよい。しかし自分の信じている幻想が猫に小判の状態になっても発狂してしまわないよう、諸仏はこの物質というものは冷静に考えると価値がない苦しみそのものであると事前にやさしく教えてくれているのだろう。

砂糖とダイヤモンドは同じ物質であるが、砂糖の方が人は本当は楽しい気持ちになれるのかもしれない。


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