2020.11.25
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

現象とは物質・精神・不相応行のどれかである

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第5回
訳・文:野村正次郎

事物には 物質 精神

不相応行 これらの三つがある

5

すべての認識対象を実際の対象形成能力をもつものかどうかで分類すれば、無常なる事物なのか、虚空のように常住なものかの二つに分類できる。そのような事物を分けると、物質・精神・不相応行(精神でも物質でもない事物)の三者へ分類可能であり、この三者は対立項である。しかるに物質であり精神でもあるものは、存在しないし、精神である限り、それは物質ではなく不相応行でもない。ここでの物質というのは、極微によって組成されている物質のことを指している。

物質・精神・不相応行という事物を三つに分類するのは、仏教内部の四大学派のなかでは経量部独自の学説ということになる。通常仏教論理学の様々な規定は、ディグナーガ、ダルマキールティによって経量部・唯識派の学説に基づいて規定に基づいており、毘婆沙部や中観派と共通している設定も多いことも確かであるが、個々の項目についての規定については微細な相違点も多いので、そこには注意が必要となる。たとえば毘婆沙部では事物と所知・有は同義であるとし、色蘊に属している無表色は非物質であると主張している。

また知とは隔絶した外部対象というものを想定しない者たちのなかでは、原子で組成された物質というものを認める者、認めない者の二つに意見が分かれているのであり、大乗の学派である唯識派と中観派では、仏地における極微組成体は存在しないので、原子によって組成されている物質というものの認めていない。しかしながら、事物を色蘊・識蘊・不相応行の三つに分類することは、すべての学派に共通しており、ここでは「物質」という表現で記述されているが、それを「色蘊」と読み替えるならば、仏教全体のすべての学説に共通して、事物を三つへと分類することができるということができる。

事物が実用能力をもつものであり、それらはすべて有為法であり、それぞれの個体が場所・時間・本質を他の個体と混淆することなく、その個体を保持しているので自相であり、これらは無常であり、刹那滅であり、過去や未来といった知によって構成されたものではない現在であり、知覚が対象とすることができる現成体であるということは、経量部以上のすべての学説における共通の設定である。そして「有為はすべて無常である」というのは四法印のひとつとして、仏教思想すべてに通底する根本命題でもある。「色は匂へど散りぬるを我が世誰そ常ならん」というが、この事物のすべては時とともにあるものである。

この時とともにある現実の現象には、原子で組成された物質と、対象を照らしだしてそれを知るものである精神、そしてその両者には含まれない、たとえば物質と精神を合体させた生命体、すなわち有情・衆生・プドガラ・人などと呼ばれるものとがあり、これらの現実の現象がその三つの項いずれかに属しているものである、ということを本偈では説いている。


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