2020.11.22
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

犀のように孤独を生きる

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第7回
訳・文:野村正次郎

縁あれば耐えられずすぐに放棄する

縁無くとも耐えられず残務を数える

何をしても常に法の障となるこれは

悪しき友と交わり過ぎている禍である

犀のようにあろうとすべきである いざ

7

この人生をどのように生きようかと考えれば、それは自己中心的に好き勝手に生きるべきではないことなどどんな人にも分かることである。できるだけ他者を傷付けないようにして、少しでも他者に役立ちたいという希望はどんな人にも起こるものである。思うことは比較的簡単であり、自分がそれをしようと周りの人に宣言することも、それほど難しくはない。しかし実際にそのような善業を毎日、ひとときも忘れることなく、積み続けるということは困難なことでもある。

私たちは何か小さな問題や障害があれば、それをきっかけとして、こんな善業などそもそも理想であって、出来やしない、とすぐに諦めてしまい、善業を実践することを放棄してしまう。そのような逆縁がなくとも、こんなことを続けるのは自分のためにはならない、他人のために尽くすことなどより先に自分のためにまずはやっておかないといけない雑事を数えてしまい、別のことをやって過ごしてしまう。どんな時にどんなことをしようとも、私たちは善業を行うことを妨げることばかり考えているが、まさにこれがすべての禍いの本質である、と本偈は指摘する。だからこそ、多くの人と必要以上に集り、多くの欲望を叶えることに奔走しようとすることをやめ、悪しき仲間と交わり、翻弄されることなく、孤独に耐え、孤独を楽しみ、孤独を友とする犀のように孤高の生を生きなければならない、と本偈は教えている。

孤独と向き合い、沈黙し、静寂の音を聴こうとすること、これは学問の基本である。群れをなして徒党を組んでも、何も新しい発見などない。私たちは孤独に生まれ落ちたのであり、孤独に死んでいく。このことを決して忘れてはならないのである。

犀は孤独を愛し、角もひとつだけである


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