敵陣を率いる凶暴な象を撤退させてゆく
善説の咆吼を群衆の中心で響かせている
謀略する狐たちも辺境へ駆逐されてゆく
四無畏を具足し給える人間の獅子 君よ
如来だけがもつ功徳である十八不共法は、如来十力・四無畏・四無礙解の十八であるが、如来の智慧の諸相を描いているものである。前偈ではそのうち如来のもつ智慧の十力を通じ弥勒仏を讃嘆していたが、本偈では四無畏を通じて、弥勒仏を讃嘆している。
如来の四無畏とは何かといえば、これは『般若経』などで説かれるものであるが、如来が強力な言葉を発することができる能力を究竟した形容するものである。
いついかなる時であれ、如来が言葉を発する時には、すべての衆生たちの中心に位置し、すべての煩悩を断じ尽くしすべての証解を究竟する法輪を転じ、それは梵天をはじめとする神々であれ、人間であれ、魔物たちであれ、如何なる異議も唱えることができない、一切の虚偽を離れ、常に真実を語っており、必要不十分な直截的表現で、それらのことを語ることができるのは、如来だけがもっている言葉の能力なのであり、これには自利・利他に関してそれぞれ二つずつの合計四つの功徳がある。
如来はすべての断ずべきものを断じ証すべきものを証しているという断円満・証円満という二つの自利円満を得ているので、「私は正等覚である」知るべきものを余すことなく知り尽くした一切智者である、と自ら如来であることを宣言できるのであり、それに対して如何なる者も異議を唱えることができず、如来自身も何の躊躇もなくその言葉を発することができる(正等覚無所畏・正等覚無畏)。同時に「私自身はこれらのすべての煩悩を既に完全に永久に断じている」と宣言できるのである。(漏永尽無所畏・漏盡無畏)
また如来は、貪欲や瞋恚などの煩悩をはじめとして、三乗道の果を得るための道を妨げている、すべて道の障害はこのようなものである、と具体的にすべてを説明できるのであり、それに対して如何なる者も者異議を唱えることができない。(説障道無所畏・障法無畏)それだけに止まらず、この一切の輪廻から解脱し、声聞乗や独覚乗に入って寂静涅槃を得るのではなく、輪廻や小乗果を遠離し、一切衆生を利益できる一切相智を得るための道とはこれである、ということを何らの躊躇も妨げもなく、そして誰にも論破されない強靭な言葉と論理によって説くことができる(説出道無所畏・盡苦道無畏)のである。
ジェ・ツォンカパはこの『大般若経』の箇所について沙門・婆羅門などは智者であるという驕りをもっており、神々・悪魔・梵天などは、天眼や他心通などの神通力をもっており、もしも狐のように嘘偽りを述べ、人を騙すようなことをしようとしても、異議を唱えることができるが、如来に対しては誰もがそのような異議を唱えようがないのは、如来たちは決して誤ったことを語ることはなく、真実のみを語りつづけるからであり、この強靭なる真実語の力の背景には、これら合計四つの事項を背景として、身体的にも清浄なまま堂々として、発話を決して躊躇することなく、心にはまったくの疑問点もなく澄み切った心で真実のみを語る強靭な力をもつ言葉を発することができると説明している。
本偈では、大草原で百獣の王である獅子王が、重低音域と倍音を含む他の動物には決して発することができないような咆哮で、大地がゆらぎ、その声が十方へと反響しわたっていくことで、最も力があると言われる象たちであれ、またその象が率いている如何なる軍勢であれ、また密かに謀略を企んで囁きあっている狐たちですらすべてが獅子の咆哮に震撼してしまう。如何なる暴力や如何なる悪意や虚飾も忽ちその威力を失ってしまい、百獣の王である獅子王が大地の中心で声を発しているように、如来が人間の中心で強靭で真実のみで構成されている声を発している様子を描いている。
四無畏を具足する如来が、人間のなかで獅子の王のような梵天の声を発することを本偈は説いているが、チベットの僧院で経頭たちが発する重低音の声は、おそらく人間が発する声のなかでもっとも低い音域で唱えられるものであり、ロシアのバリトン歌手が発する低音域の発声法は、このチベット文化圏の独特の発声法と無関係なものではないだろう。密教学堂で重低音で読経する習慣は、ツォンカパの弟子で秘密集会の伝統を保持したギュメー密教学堂の創始者であるシェーラプ・センゲに由来するという伝説もあるが、重低音で読経することが宗教的な意味をもっていることだけは確かである。
声や音声というものは、波動の周波数を高くしていけば、高音になり人間には聴取不可能な電波や光になるが、周波数を低くしてもまた同じく人間には聴取不可能になり、単なる振動となる。さらにその周波数を低くすれば、非常に長い時間をかけてひとつの波動を形成する、空間のうねりのようなものとなるだろう。低音というか低周波の振動は、減衰音が時間的にも長く続くということを考えれば、如来の発する声の超重低音域の残響が現在も続いているということは科学的な理論上不可能な話ではない。そして超重低音域の残響を聴取して、それを言語に変換することができるのならば、いまも如来の説法が続いているということも物理的法則に反するものでもないことがわかる。これらのことは、今後科学的にも研究が必要であろうが、釈尊の発した声の残響音は、弥勒仏の発する声がそこに重なることで、人間によってより聴取しやすい状況になることだけは間違いないだろう。
釈尊であれ、弥勒仏であれ、如来はすべて人間であるライオンのような存在であると本偈では説いている。ライオンは決して下らないことでじたばたしないし、いつも何も畏れず、余裕綽々である。如来たちもそれと同じであり、私たちもまたそうあるべきであろう。