2020.11.18
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

一本の柱を荘厳する無限の可能性

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第4回
訳・文:野村正次郎

これを分類するならば、事物・常住

否定・肯定 定義・定義対象・定義基体

所作・非所作 既成・未成 有為・無為

実在者・非実在者 滅・非滅などがある

4

所知などの一切法を分類すれば、実用能力がある無常なものである事物なのか、そうではない常住なものなのか、の二つである「事物・常住」の二つに分類できる。またその対象を理解しようとする時に、言葉や分別知によって何らかの否定対象を排除した後に理解されるものである否定的存在なのか、そのような否定対象を排除しなくても理解できる肯定的存在という「否定・肯定」の二つにも分類可能である、またその対象がこのようなものであると名称化して定義される時、具体的にその定義の基体となっているものなのか、それを定義しているものなのか、その定義によって名称かされた呼称なのか、という名称化の観点で「定義・定義対象・定義基体」の三つにも分類できる。

あるいはまた、そのものは何らかの実際の動作によってその構成要素を組成して作り出されているものである所作なのか、そのように作られたものではない非所作なのか、という「所作・非所作」の二つにも分類できるし、現実に現象として既に生起しているものなのか、それとも未だ生起していないものなのか、ということで分類すれば「既成・未成」の二つに分類可能である。またそのものが材料となるようなものを集めたことによって作られているものである有為法なのか、そうではない無為法なのか、という観点で「有為・無為」にも分類できる。また無常な存在であり、常に滅しつつある刹那滅なのか、それともそうではないのか、ということによって「滅・非滅」と分類することも可能である。本偈で提示されている所知の分類は以上であるが、これ以外にも勝義諦と世俗諦の二諦に分類することもできるし、自相・共相の二つに分類することもできるし、現成体・秘匿体の二つに分類することもできるし、過去・現在・未来の三時に分類したり、同一体・別異体に分類したりすることもできるし、実と仮と分類したり、真実と虚偽へと分類することもできるし、すべての意識の対象となし得るものを分類の根として、様々な観点で様々な項へと分類をし、そのものが一体如何なるものなのか、ということを知ることができるのである。

たとえば柱というものを考えてみるならば、柱は正しい認識によって理解されるものであるので、存在しているものであるので、所知であり、所量・所依成立・有・法・基体・縁起・所縁・有法・客体である。この柱には、屋根を支えるという実用能力があるので、これは「事物」である。柱を理解するためには、何らかの否定対象を排除して理解しなくてもよいので、この柱は「肯定」である。そして「柱」とは、樹でできた屋根を支えるものや石でできた屋根を支えているものといった具体的な定義されるものに対して、「屋根を支える能力をもつもの」という柱の定義によって定義されているものであるので、柱は「定義対象」である。柱は大工さんたちが作ったものであるので、柱は「所作」であると知ることができるし、柱はもう既に生成されているものであるので、「既成」であるとしることができるし、石や樹などの物質を集めて作っているものであるので、「有為」であり、柱そのものは架空の想像物ではないので「実在者」であり、作られているものであるので、それは壊すこともできるし、たとえば樹の柱などは、耐久年数などもあるので、徐々に劣化していくものであるので、これは刹那滅であり、「滅」であり、知覚可能なものであるので、「現成体」であるし、壊れた柱とか柱の材料ではなく、柱であるので「現在」であり、通常の我々の正しい認識によって得ることが確認可能なものであるので「世俗諦」であるとか、柱についても様々に知ることができる。

これらの知は柱という所縁・有法に対して「〜である」という属性・形象によって知る知であり、柱という根に対するその柱の所有する項を知る知識であるが、ある基体において、ある項を知ることができるからといって、同義となる項を知っているわけではない。

たとえば柱の場合には、柱は事物であるということが分かっていても柱は現在なのか、未来なのか、過去なのかが分からない場合もあるし、柱が定義体対象であるのかどうか、ということは柱の定義はこれで、それによって柱という名称が具体的な定義対象である石の柱や木の柱に付託されている、という関係性を理解できない場合も多いのである。作られている「所作」はすべて「無常」なものであるが、柱が作られていることを知っていても、柱が壊れゆく無常なものであると理解できていない場合も多い。これはたとえば、私たちが生まれて死んでいくという「無常」な存在であると知りつつも、いま現在死につつある「滅」が分かってないことと同じことなのである。柱が壊れて石の破片や樹の破片になっているものは、これを柱の「過去」であるとするが、それは「柱が無い」ということではなく「現在」である「柱」が、柱としての本体を維持できなくなった「過去」「非実在」の状態になっているだけであり、それは変化しただけであって、意識の対象領域としなし得るので、「無」になったわけではない。同様にいまの私たちは死んでいくけれども、それは「無」になることでもない。

このように所知を分類した項は無限に存在しているが、冒頭の偈にあったように、この広大な草原には、道理という花が咲き乱れているのである。花を愛でるものは、ひとつひとつの愛らしい花を愛でるように、仏の境地を目指している私たちはひとつひとつの項を丁寧に考えていくことで、これまで気づかなかった無限の新しい発見があるのである。

ゴマン学堂の集会殿の一本一本の柱はすべて荘厳されている

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