身口意の三門を善根へ結びつけるために
名実を共にする善知識へと師事している
このすべての法行は彼を根源としている
このように思いつつ教えに従い実践する
いま得ているこの法縁を紡ぐがよい いざ
仏教を学ぶ上で何よりも大切なことは、自分と釈尊との関係をきちんと作る、ということであろう。この教えは釈尊に由来するものであり、私の先生は釈尊である、私の師は釈尊である、こういう問題に対して釈尊は何と説かれているのだろうか、釈尊はこう説かれているので、私はこうあるべきであろう、釈尊のおかげで私はこうあることができる、このような意識をもてない、ということは釈尊との関係を築けていない、ということであり、それは仏縁がない、ということとなる。
釈尊ご自身がいまここにはいらっしゃる訳ではない場合には、釈尊の代わりに釈尊の教えを伝えている先生に私たちは釈尊の教えを教えてもらう必要がでてくる。釈尊の代わりに釈尊の教えを伝えている先生たちのことを「善知識」と呼び、私たちは釈尊の代わりに善知識の方々と縁を結び、きちんとした関係を築くことが仏道修行のはじまりとして何よりも大切なことである。
本偈ではこれを、私たちが行動・言動・思考といった身口意の三業をすべて善業に関係するものへとするという善知識に師事するための目的を確認し、善知識としての条件を名実共にする善知識に師事し、そのような善知識がすべての仏教の実践の源であるからこそ、善知識の説かれている教えの通りに実践して、善知識との法縁をきちんと紡ぐ必要がある、と述べている。これをひとことで表現するのならば、私たちはきちんとした師弟関係をもたなければいけない、ということになるが、この場合にもっとも重要なことは、この師弟関係とは、私たち自身の「身口意の三門」を「善根へ結びつけるために」に築くためのものであって、通常の人間関係とは異質な「法縁を紡ぐ」「仏縁を紡ぐ」目的が、私たち自身の変容のためにあるのであって、通常の人間関係が、関係する双方にとって利益がもたらされるのに対して、この仏縁や法縁という師弟関係は、一方的に私たち弟子の側に利益がもたらされるということ不均衡な一方的関係にあるということである。
もちろん諸仏や善知識が説法をすることは、彼らにとって一切利益がないという訳ではない。諸仏や善知識は我々のようなだめな学生に説法をされることによって、いま既にもっておられる功徳がさらに増大することは確かであるが、これは私たちに説法をせずとも、他の衆生に説法をされるとか、もっと真面目に真剣に耳を傾ける学生たちに説法をされることで、私たちのような怠惰で駄目な学生たちに説法をされるより、よっぽどよい功徳を積むことができる。
実際に釈尊の説かれた僅かな詩頌ひとつだけで、解脱に至った立派な阿羅漢たちや菩薩たちの話は無限に経典でも紹介されていることであり、その代表例として私たちはシャーリプトラをあげることができる。シャーリプトラは釈尊が縁起を説かれているという縁起法頌を耳にし、仏弟子となりすぐに解脱し、生涯釈尊の従者として、釈尊のお世話をされ、釈尊の一番弟子として有名である。シャーリプトラ以外にも様々な神々や五百羅漢の逸話などでは、彼らが一瞬にして阿羅漢果を実現したといった素晴らしい弟子たちに囲まれている話がでてくる。
またヴィクラマシーラ僧院の僧院長であったアティシャがチベットにいらっしゃる時には、ターラ菩薩からあなたはチベットに行けば寿命は縮まるだろうが、観音菩薩の化身の弟子をもつことができると説かれて、チベットへと入り、ドムトンパという観音菩薩の化身を筆頭の弟子とすることができたが、私たちがドムトンパのような弟子になるためには、かなり心を入れ替える必要がある。
こうしたことを考えるのならば、私たちのような出来の悪い弟子が、釈尊や歴代の師資相承を善知識とした仰ぎ、きちんとした弟子らしく弟子としての務めを果たそうとすることが如何に困難なことなのか、ということも実感できる。ダライ・ラマ法王も日本には何度もいらっしゃり、両部曼荼羅をはじめ、文殊菩薩や観音菩薩やターラー菩薩や不動明王などの様々な灌頂を授けられたり、般若心経の解説をされたり、ジェ・ツォンカパの根本聖典である『縁起讃』の口伝なども授けてくださった。それらの伝授会の際には、毎回のように「このテキストを暗記し、毎日読んで考えて、いま教えたことを毎日実践できるようにしましょうね」と語ってくださっていたことは確かである。しかしそこに参加した日本人の我々はのべ数万人となるであろうが、このダライ・ラマ法王の教えの通りに日々それらの経典を紐解いて、自らの人生のなかできちんと実践できている人たちはどれだけいるだろうか。彼らが説いてくださった通りに日々実践することは大変困難なことは確かであり、自らの身口意の三門を常に善業へと結びつけ、この法縁の糸を紡いで、私たちに与えられた課題をこなしながら在ろうとすることは、極めて困難極まりないことである。
先日もゴペル・リンポチェと話した時に「みなさんが心配されていますよ」と伝えると、
「みなさんが大変心配してくれるのはありがたいが、私やアボの心配なんてちっともしなくていい。そんなことより、私はみなさんが元気かどうか、とか心配だ。これまでみなさんは、ダライ・ラマ法王から説法を受け、あれだけ立派なゴマン学堂の先生たちから沢山教えを聞いているはずだ。心を落ち着けて、不安になったり悩んだりせずに暮らしているかどうかの方が、私はよっぽど心配だ。そもそも仏教なんて少なくとも一生かけて学ぶだし、修行というのは、何度も転生しながらやっていくものだ。焦ってやる必要は全くない。完璧なものを目指す必要もない。いまの状況は一時的に過ぎない。のんびりやるのが一番だ。とりあえず今年はみんな静かに家でこれまでならった沢山のことを復習して、あれこれ考えずに、のんびり過ごし休暇を楽しむよう伝えてくれ。」
とおっしゃっていた。とりあえず私の方からは「リンポチェはダライ・ラマ法王とゴマン学堂から私たちの三代目のラマなんですから、日本のことを忘れないようによろしくお願いしますよ」と頼んでおいたが「ははは。食事ができたみたいで、上の階にいくので、んじゃまた。」とおっしゃっていた。
私たちは幸いにも、前世からの法縁であろうが、仏教に触れることができ、この学問はいつも途上にある。釈尊の教えと私たちとの関係は、私たちの社会生活に必要な人間関係とは異なった、如来たちと私たちとの特殊な不均衡な一方的関係である。しかしこの関係は、大変貴重でありがたいものであると感じ、その関係を一期一会のものとして大切にできるどうか、という私たちの心持ちの問題であると思われる。それは釈尊が在世ではなくとも、善知識の方々が留守であろうともできることであり、それが私たちが仏弟子であろうとすることである。それは決して焦ってやることではなく、のんびりゆったりと優雅にやることなのだろう。