2020.11.13
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

稲妻の閃光・如来の十力

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第5回
訳・文:野村正次郎

無辺の所知へと礙げなく志向する

智慧の力で凶悪な魔軍は敗北する

威勢よき若い花も落雷で斃されるように

十力の稲妻の閃光で威嚇している 君よ

5

地上に咲き乱れる若き花へ落雷することで、どんなに威勢よく咲いていた花もすべて倒れてしまうように、どんな凶悪な魔の軍隊であれ、弥勒仏の無礙なる智慧の力で制圧され、敗北してしまう。その智慧は仏にしかない十の強大なる力を持っているからであり、その強大な力をもった稲妻のような智慧がありとあらゆる無限の対象へと降り注ぐことで、すべての対象の真実は明らかにされるのである。前偈では弥勒仏の大慈の軍隊の強大さを説いていたのに対し、本偈ではその弥勒仏の智慧の力の強大さを表現し、私たちの未来に、どんなに暗いどんな悲劇があろうとも、その我々の感情や思い込みのすべてが単なる錯覚であったかのように感じさせてくれる、弥勒の慈悲の軍隊や智慧の軍隊で、すべての不条理や悪質な勢力が制圧される、ということを説いている。

本偈から私たちが改めて学び感じるべきものとは、諸仏の力である。私たちは諸仏を救いのより処として仏に帰依し、仏とはどのような存在なのか、ということについて何となく知識をもっているが、仏のもつ独自な力や能力を具体的にあまり分かっていない場合が多く、勝手に想像している場合が多いからである。しかしながら、仏とはこのような力をもっているというのは、伝統的に決まっているものがあるので、ここではそれをまず紹介してみたい。

まず諸仏のもつ身体的な力であるが、これについては『阿毘達磨倶舎論』でヴァスバンドゥが紹介しているように、如来のもつ身体的な力とは、ヴィシュヌの別名であるナーラーヤナ(那羅延天・毘紐天)と同じくらいの身体的な力をもっているという。ナーラーヤナの力というのは、この地球上で最も力持ちの動物である象の千万倍程度の力とされているので、その力は想像を絶するほどの力であることが分かるであろう。象を怒らせると車を持ち上げて暴れ狂い、様々なものを破壊してしまう。その強力な様子は最近では動画でもひろく公開されているので、それを参照することができる。そしてその象の力の千万倍の力をもつのが如来である、と想像してみることはできるだろう。しかし千万倍ともなるとあまりにも強大すぎて想像を絶する力であることも同時に私たちは知ることができる。しかしながら取り敢えず「諸仏の力は象の千万倍」ということだけは覚えておきたい。

『倶舎論』ではまた、この如来の身体能力の全体がナーラーヤナの力に匹敵するのではなく、如来の身体に備わっている三百六十二個のすべての関節に、その象の千万倍ずつの力が備わっているとする説もあることを紹介している。そうなると関節を複合的に使った場合には、更に力持ちということになる。たとえば人差し指の第一関節を曲げるだけでも、象の千万倍の力を如来たちはもっているのであり、これはもう大変な力である。如来の強大な力の前では、すべての神々もひれ伏してしまうというのもそこまで力をもっていては無理もない話であろう。私たち仏教徒は仏法僧に帰依する限り、どんな小さな仏像や絵であっても、如来の姿が表現されている限り、そこに本当に如来がいらっしゃると思い、大切に扱わなければならないが、その如来たちは、すべて象の千万倍以上もの力をもっておられると思うと、物理的な圧倒的な力で私たちは不安を解消できることも確かであろう。私たちは如来のこの身体能力を知る限り、ひとり暮らしで不安を感じる必要もないし、猜疑心に犯されて拳銃などを購入して身の安全を守ろうとする必要もない。何故ならば、どんな拳銃よりも如来たちがもたれている力の方が遥かに強大であることを知っているからである。

このように如来たちは象の千万倍以上もの身体能力をもっておられるが、この体力自慢をする必要性もなく、物理的な体力というのはナーラーヤナにも同じような力があるので、如来だけがもっている力ということにはならない。そもそも身体能力というのはあくまでも物理的なものであり、物理的な力というのは、あくまでも物質に依存するので、物理的な限界をもったものである。

それでは、仏しか持つことができない力とは何か、といえばそれは仏の十八不共法として数えられる「十力」というのがそれにあたる。十八不共法とは、如来十力・四無畏・四無所畏・四無礙解の十八の如来しかもっていない功徳のことであるが、そのうち如来の十力とは、①処非処智力・②業異熟智力(自業智力)・③種種勝解智力・④種種界智力・⑤根勝劣智力(種種根智力)・⑥遍行行智力(遍趣行智力)・⑦靜慮解脱等持等至雜染清淨智力・⑧宿住隨念智力・⑨死生智力・⑩漏盡智力の十力であるが(ここでは『大般若経』の玄奘の訳語を挙げたが、括弧のなかには『瑜伽師地論』での異訳を記した)、この如来の十力とは何かということは、経典では『雑阿含経』『華厳経』『三昧王経』『大般若経』『宝積経』『決定義経』『仏十力経』などの大乗・小乗を問わず多くの経典で説かれるものであり、論書でもまた『阿毘達磨大毘婆沙論』『倶舎論』『順正理論』などの阿毘達磨文献から『瑜伽師地論』『現観荘厳論』『宝性論』『入中論』といった大乗の論書でも詳しく説明されるが、ここではチャンドラキールティの『入中論』とそれに対するツォンカパの釈『密意解明』をもとに簡潔にまとめておくのならば、次のようなものである。

まず如来は、特定の原因から特定の結果が必ず起こる場合その原因がその結果の所依たるもの(sthāna 処)であり、それとはその結果が起こることがない場合には、その原因はその結果の所依でないもの(非処)である、ということを一切法について知る能力をもっている、ということが一切のものがそれと因果関係にあるものの拠り所となっているかどうか、そしてそのものが結果を生み出すことができる可能性をもっているのかどうか、ということを正しく知ることができる智慧の能力は如来だけに備わっている智慧の力の第一のものである。(①処非処智力)

また如来が望んでいるものは善業であり、望んでいないものは悪業であり、この二つは全く異なったものであるが、それらを混同して誤って捉え、有漏の悪業を尽くす無漏の業などによって、様々な異熟の結果がもたらされるが、すべての業とその業の異熟果のすべてを何らの認識上の問題もなく、無礙に個別的に知り、過去・現在・未来の三時の業とその結果を知ることができる智慧の力を如来は持っている。これが第二の如来の智慧の力である。(②業異熟智力/自業智力)

次に私たち衆生には貪欲をはじめとする様々な煩悩がありそれらが動機となって、様々な意思をもってさまざまな活動をしている。たとえば善き意思をもっていても、その意思のなかには悪意が潜んだりしていたり、悪意のなかにも善意が潜んでいたりする。これらのすべての衆生の複雑な意思やそれによって何を目指しているのか、ということを過去・現在・未来に渡って、すべての衆生のもつ意図を知り尽くすことができる智慧の力は如来だけがもっているのである。(③種種勝解智力)

また、如来たちは五蘊・十二処・十八界などの諸法のすべてを知っているが、特にそれらを正しく知っているのは、それらの個々のものを個別に知っているのであり、たとえば眼などのものが一体何なのか、それによって如何なるものが捉えられ、それによって如何なる感情や煩悩が生じて、どのように業を積んだりするのか、という一切の法が生成される、過去・現在・未来のすべての根源(界)に関して、その根本的な側面およびそれらが空であるという真実、すなわち十八空などをすべて通達している智慧の力をもっている。これが如来不共の第四の智慧の力である。(④種種界智力)

また私たち衆生たちは、正しくないものを様々に分別して、それに過剰な価値評価を与えることによって自らの価値判断によって支配されていることから、この私たちが元々もっている能力を「機根」というが、この我々の機根にも、勝れたたものや劣ったものがあり、鈍根・中根・鋭根といった機根の優劣やそれらが相互に組み合わせによって優劣のある様々なものが生成される。このすべてのひとつひとつの能力の差異とその組み合わせによって様々な価値的な差異をもつすべてのものがどのように成立していくのか、ということのそのすべてを知る智慧の力を如来たちはもっている。これが第五番目の力である。(⑤根勝劣智力/種種根智力)

ある道を進めば成仏することができるが、ある道を進めば独覚の覚りを得られ、また別の道を進めば声聞の覚りを得ることができる。また地獄・餓鬼・畜生へと転生してしまう道、神々や人間へと転生する道、阿修羅へと転生する道、様々な正しい道と誤った道があるが、そのどれを辿ればどのような衆生になるのかということをすべて余すことなく個別に知る智慧の力を如来はもっている。(⑥遍行行智力/遍趣行智力)

また如来は、無限な世間の雑染に属する禅定と清浄品に属する禅定のすべてを完全に習得しており、四禅・八解脱・あらゆる奢摩他と毘婆舎那などのすべての清浄品の禅定を自在にできる雑染品と清浄品の禅定を実行できる智慧の力をもっている。(⑦靜慮解脱等持等至雜染清淨智力)

さらに如来は自分の過去世だけではなく、すべての衆生の過去世のそのひとつひとつに至るまで、過去に具体的にこのような場所でこのような時にこのような姿をしてこのような業を行っていた、ということをすべて知ることのできる智慧の能力を備えている。これが如来の第八番目の智慧の力である。(⑧宿住隨念智力)

さらにはすべての衆生のそのひとりひとりについて、過去世でどのように死に、そこからどのようにどこに転生して、どのように生を受けたのか、ということを具体的にすべて、何らの残すこともなくすべてを知ることができる智慧の力をもっている。(⑨死生智力)

さらに一切相知という仏の力によって貪欲などの煩悩とその一切の習気を克服できるのであり、その煩悩のなかには声聞の所断であれ、独覚の所断であれ、菩薩の所断であれ、すべての煩悩を断じ尽くす無漏の智慧によって滅、すなわち煩悩を断じ尽くした状態の智慧を直ちに一刹那ごとにすべてを同時に実現しているという智慧の力をもっている。(⑩漏盡智力)

以上が如来の十力であるが、これらの如来の功徳というものは、チャンドラキールティが述べるようにあまりにも無限にあり過ぎて、すべてを語り尽くすことなどできないものである。

チャンドラキールティはこのことを、空の果てがあるので鳥は飛ぶのをやめるのではなく、飛びつつけるのに疲れて飛ぶのをやめる、ということに例えている。如来の功徳を語りはじめるならば、その功徳は無限にあり、語りつくすことを諦めるしかない。如来の功徳は語り尽くせるようなものでもないし、インドの大学者のチャンドラキールティですらそのように告白しているのであるので、現代の我々が簡単にその功徳を説明することなど決してできないだろう。

しかしこれらの甚深・広大なる功徳は、すべて無我・空性を諸仏が現観し、煩悩障・所知障のすべてを断じ尽くした、一切相智を実現したことによって得られたものであり、如来の無限の功徳を片隅でも知ることは私たちの仏道修行にとって不可欠のことでもある。

以上みてきたように如来の物理的な力はひとつひとつの関節に象の千万倍の力があり、さらに精神的な力には、十力に代表される無限の力がある。私たちは、どんな小さな仏像や仏画を眼にする時も、そこに本当にそのような力の存在を感じる必要がある。この無限の慈悲と無限の智慧の閃光は稲妻のように私たちに突き刺さり、私たちは感電する。それが如来によって私たちの精神が加持を受けるということにほかならない。


RELATED POSTS