有法という法類の根を説明して
その法たる法類の項を提示する
そこで確定される規定は何なのか
それを決択する帰謬とは何なのか
思想を中観へとどう志向するのか
これらの五項目が梗概なのである
私たちは現実の世界を生きている。現実の世界は抽象的で観念的ではなく、実際に人々と出会い話をし、共にお茶を飲んで語り合い、太陽の光が差し込む空間で、この世にどのようにあろうとするのか、という有様について考えながら生きていかなくてはならないものである。しかるにすべての仏教の教義というものは、この私たちが現実世界にどのように生きるべきか、ということを説いているのであって、何か別の世界に行こうとし、秘密の真理だけしか存在しない理想郷を目指して修行しているわけではない。この現実の場所において、煩悩を断じて解脱し、一切衆生たちが生きているこの現実世界において、一切衆生たちの現実的な苦悩をすべて解消するために、一切の知るべきものを知っている一切相智の境地を実現しなければならないのである。
ちいさなチベットの村に生まれたチベットの子どもたちは物心ついた頃から実家を離れて暮らすことになった僧侶たちは、親兄弟から離れて学問の府に住むことになり、はじめに文字の読み方や師僧や学友たちとの付き合い方から行儀作法を含めて習っていく。ひとつひとつ習っていく経典をとりあえずは暗記し、僧院の一員として先輩は師匠に怒られないように、まずは在家の者から出家の者へとなっていくことから、彼らの人生ははじまる。
数年間してそのような生活に慣れてきたことから、単に経典を丸暗記するだけではなく、ひとつひとつの行間、ひとつひとつの言葉の意味を経典の文字列を指でなぞりながら師匠から手ほどきを受けるようになる。山のように積まれた経典のなかから取り出されてきた経帙を先生たちは購読してくれるようになり、僧侶たちは実に楽しい時を過ごせるようになる。僧院はあくまでも閉ざされた世界であり、実家を離れて僧院という社会へとやってきたが、そこは決して何処かに開かれた世界ではなく、時には実社会の方に戻った方がよかったのかなと街の友人や兄弟たちの話を聞くと思う疑念を仏典の購読が払拭してくれる。
書物というものは、それを開いたその瞬間から過去の偉大な人たちがやってきてくれ、私たちに何か素晴らしい智慧を授けてくれるものである。他者の書いたことばは他者の時間へと私たちを誘い出し、閉塞感のある私たちの世界を打破し、他人の書いたことばが閉じ込められている経帙の文字列には、私たちが過ごしたことのないような日常を生きた人々と物思いにふける時間を与えてくれる。いまここにいる私たちではない、別のところにいる人たち、あるいは別のところにいた人たちと触れることで、私たちの行き止まりの人生の道が開かれてあることを経帙は教えてくれるのである。私たちはそこから開けている何処か遠い彼方への一歩を踏み出してみたい、という気持ちになっていく。一頁一葉の経典の文字列は、それを理解できずに眺めているだけでも、うっとりするような静謐な沈黙のことばを語ってくれるものである。そこには未だ見たこともないような場所の名前、行ったこともないようの城市の情景、これまで出会ったことのないような立派な人たちや菩薩たち、そして賢者たちを取り囲んでいる美しい世界とその天空に舞う天女たちや神々たちの存在を示している。もちろんそれらの世界を私たちは直接すぐに見ることもできないし、そこに行くこともできないが、そうした経典に通じている師匠たちは、そこに存在する仏たちや遠いインドの賢者たちの壮大な物語を、書物を机の上において、一緒にお茶を飲みながら窓から外を眺めながら語ってくれる。いつか私たちもこの窓やこの建物から飛び出して、その世界へと出かけて素晴らしい世界を自由に謳歌したい。仏典の購読はそんな気持ちへと私たちを導いていく。
最初は一冊一冊と師匠は指で経典の文字列をなぞりながら、やさしい声で音読しながら、ことばとことばの合間にその言葉のもつ壮大な世界を教えてくれながら、私たちは本を読んでもらう。「仏とはこんな方ですよ。如来ってのはこうこうこういうことから如来っていいます。私たちは所詮こうですが、如来たちはこうこうこうですよ。」そんな物語の声が茶碗やポットなどのいろんな日常用品が置いてある部屋の空間を仏の道場へと進化させいく。しかし師匠たちもなかなかお忙しい方々で、四六時中私たちにそれをしてくださるわけにもいかない。毎日一、二時間でも私たちの仏典を購読してくださるだけでもとてもありがたい方々ばかりであり、それ以外の時間には、教わった経文を暗記したり、ひとりで読んだりしなくてはならない。時には師匠もどこかに出張でお出かけになって、何ヶ月も留守になったりされることもある。その間はひとりで自学自習しなくてはならないのであり、僧院では幸いそうした時間を友達たちと外にでて、すこし広い場所で楽しく問答をしながら、教わったことを自分で組み立て、きちんと理解できているかどうかを確かめる楽しい議論の時間が準備されている。先輩たちは広場に集まって、大きな声で汗だくになったり、相撲のように押し合ったりしながら、問答をして楽しそうである。そんな楽しい広場で問答をしたいと思うのであり、外に大切で貴重な経本をもって、風で飛ばされたり、紙が破れてはいけないので、出来るだけ書いてあることを頭のなかに先にいれておいて出かけなくてはならない。
経典の内容を問答しようとしはじめるのならば、まずはそこに書いてある話を自分で組み立てていかなければならないことがすぐに分かるようになる。あそこにはこう書いてありましたよ、あっちにはこう書いてありましたよ、って問答の広場で友達や先輩に語ったからといって、それだけで決して褒めてもらえるわけではない。そんなことはこの僧院ではあたりまえであり、「そんなことが書いてあるのはみんな知っている。あの先生はそう教えておられるのなんてあたりまえだろ、だからどうしたっていうんだい。お前は何が言いたいのだ」と一蹴されて終わりである。しかるに、書いてある言葉を自分で組み立てる方法を身につけるしかない。書いてある言葉の構造、物語の組み立て方、物語の道筋を自分で理解して、先輩や友人たちにその物語の道筋に沿って話をしなくては相手にされないし、師匠たちの言葉をそのまま暗記して、偉そうに自分が師匠たちになったかのように先輩や友人に語ってもどうしようもないのである。先生が語っていた話であれ、経典に書かれていたことであれ、自分で組み立てて、自分で語れるための論理とその道筋というものをマスターしなくてはならないのである。
僧院には山のように積まれた経典がある。しかし外を散歩している時やお茶を入れるために水を汲んでいるとき、バターを買いに行く時にまで、経本を手にして出かける訳にもいかない。問答をするための広場にいって問答をする場合でもそれは同じである。先生たちもそんな出来の悪い生徒の面倒を四六時中みきれない。このような事情から、まずはこの八万四千という膨大な仏の智慧の蔵である書物をひとりでできるだけ自習でき、師匠たちが教えてくれるひとつひとつの話もものごとの筋道に従って、ひとりでそこに辿りつけるような仏典の渉猟の仕方、仏への道を自分で歩めるための論理的な道筋、それを習い、それを教えなくてはならないのである。そしてこの論理的な道筋、仏典の壮大な物語の全体像、その全体像のなかでも重要なポイント、それを膨大な仏典を学ぶにあたり、まず学ばなくてはならないのである。そしてこの私たちが八万四千の法蘊への渉猟の仕方、具体的な道の行き方を説いているもの、それが論理学なのである。
仏教論理学の根本聖典は、ディグナーガ(Dignāga, 陳那)の書いた『集量論』(Pramāṇasamuccaya)であり、仏教論理学の開祖はディグナーガである。このディグナーガの生涯について若干説明しておこう。
婆羅門の家に生まれたディグナーガは若い時に出家し、犢子部の師について読み書きから文法学まで多くのことを学んだ。ある日師から、「身体とは別な言語では表現できない私」とは何かということを観想しなさい、と言われたので一所懸命観想するのだが、それが見当たらない。そのような我というものは、きっと何処かに隠されているのだろうと思い、四方に燈明を灯して、裸になって眼を凝らして探すのだが、見つからなかった。
そんな奇怪な行動をするので、友人たちが師に報告したところ、師からは「あなたのその行動は私たち学説を批判的に皮肉っていることだ。もうここにいなくていないのでどこかに去りなさい。」と破門を通告されてしまう。「身体とは別な言語では表現できない私」というのは犢子部の独自のプドガラ理論であり、そのようなプドガラが輪廻の主体である、とするのが犢子部独特の重要な教義であるからである。こう告げられたディグナーガはその場でその先生の学説を論理的に分析して覆すことができるだろうと思ったが、そんなことをするのは相応しくないと思い、長年親しんだその師の元を離れてヴァスバンドゥ(Vasubandhu, 世親)に弟子入りする。ヴァスバンドゥに弟子入りしたディグナーガは、犢子部以外の部派仏教の教義から、大乗の教義までを幅広く学ぶことになる。特にヴァスバンドゥは唯識派の開祖のアサンガ(無着)の弟であり、『阿毘達磨倶舎論』や唯識派の八冊の本の著者としても有名であり、ディグナーガはヴァスバンドゥからは特に論理学と唯識思想を多く学び、特に論理学に関しては師のヴァスバンドゥを凌駕する才能を発揮した。
このようなこともあり、ヴァスバンドゥからは、「衆生の苦しみの原因は正しい対象を理解できない無明にあるので、それを断じるためと、その対治としての智慧が生じるためにあなたの論理学の才能を活かした書物を書きなさい」と命じられ、『倶舎論』に対する注釈書(Abhidharmakośavṛttimarmapradīpa)や唯識思想を認識のプロセスで説明した『観所縁論』(Ālambanaparīkṣā)、『功徳無辺讃註』(Guṇāparyantastotra-ṭīkā)をはじめとする仏讃に対する注釈、般若経の概要である『仏母般若波羅蜜多円集要義論』(Āryaprajñāpāramitāsaṁgraha)やそれまでの論理学をまとめた『因明正理門論』(Nyāyamukha)などの多くの著作を著した。しかしながらそれらはすべて個々の問題や特定の経典のことを扱っているだけで、その都度必要性に応じて書いたもので、その全体をまとめたひとつの著作を作っておけば後々きっと様々な人の役に立つだろうと思って、洞窟に籠もって『集量論』を洞窟にあった石板の表面に次のように書きはじめたのである。
量となっている、衆生を利益せんとする方、教師であり、善逝であり、救済者たるあなたを私は礼拝せん。量であると証明するため、これまで私が書いてきたそのすべての断片をここにひとつにまとめておこう。
こう冒頭の釈尊に対する讃嘆と著作宣言の偈を書き始めたところ、この世界に仏教論理学の根本聖典が出現することから、大地震が起こり、大地に光明が指し、大地が鳴り響き、世界を覆う大きな音がした。遠くにいた外教徒の教師たちも、脅威に感じて足がすくんで木のように動けなくなってしまうなどの様々な不思議な現象がこの時に起きたのである。
近所に住んでいた外教徒の教祖はそのような論書が登場しては困るし、自分たちの論理がすべて打ち破られることを恐れ、嫉妬心で発狂し、このままでは困ったことになると思い、神通力を使ってこれからの未来を予想しながら、こっそりディグナーガが洞窟から外出して托鉢にいっている間に壁面に書かれた『集量論』を消しにいった。消されるたびにディグナーガは再び同じことを書いた。
とうとう三度も消されたので、三度目にはまた同じ偈を書いて「私のこの偈を消しているのはどなたですか。遊びや冗談で消しているのなら、これはとても大切なものですので消さないでください。嫉妬心で消しているのならば、書きたいことは全部もう頭に入っていますので、無駄ですのでやめてください。私の書いていることが間違っており、それを論破したいと思うのならば姿を見せてください」と書き残しておいたのである。
外道の師に消されるたびに、ディグナーガは再び同じ冒頭偈を壁に書いたが、その度ごとに同じように地震が起こり大地は鳴り響き、同じような不思議な現象が起こった。三度目に書いた時には、消しにくる者のための書き置きもに記しておき、再びディグナーガは托鉢のためにまた洞窟をあとにし外出していったのである。
街を回って托鉢を終えて、洞窟に戻ってくると今回はこの外道の師は、論争しようとして待ち構えていた。そこでディグナーガは、どちらの教義が正しいのか議論しましょうと問答をはじめてみるのだが、その師は二、三度問答を交わすだけでその負けてしまう。そこでディグナーガはこの師に「もうあなたも仏教徒になられては」と勧めたのだが、却ってその教師は怒り狂ってしまい、火を成就して口から火を吹き出し、そこにあったディグナーガの日用品をすべて燃やしてしまったのである。
ディグナーガは絶望した。自分が習ってきたこと、特に釈尊こそが正しい認識にほかならず、その釈尊は衆生を常に利益しようとされている。釈尊こそが私たちに道を示してくれる教師であり、善逝や如来と呼ばれる釈尊こそが救済そのものであり、釈尊とその教えこそが正しい認識そのものであり、普通の人であった釈尊が、正しい認識を繰り返し、誤った認識を退けて仏になったその論理の道筋を示すことは、自分の仕事としてきっと他人の役に立つだろう、師のヴァスバンドゥよりも論理学に卓越したものと褒められ、師からも正しい認識が人々に生じるために著作をするよう言われたのに、自分はこのたったひとりの外道の先生すら仏教の正しい道へと入れることができない。この輪廻の苦しみからすべての衆生を救おうとして仏の境地を目指すことなんて、こんな私にはできやしない。もう利他なんて諦めて自分はひとりぼっちでいいので、解脱を目指そう。そう絶望したディグナーガは、石板に書きはじめた『集量論』を手にして、こんなものもう無理なんだと、宙に放り投げ粉々になってしまえと捨てようとした。
するとその瞬間、文殊菩薩が突然現れて、石板が地に落ちないようい拾い上げ、ディグナーガに向けて次のように声をかけたのである。
「息子よ、よくない人と交わって影響されてしまうとはどういうことだ。衆生を利益したいという気持ちがあるのに、どうしてそんなことを気にして捨ておかないのか。」
ディグナーガは悲しみに任せて告白する。
「仏よ、輪廻というのは耐えがたいあまりにも多くの苦しみに満ちています。大変不安定で信頼できません。どんなに諸仏のことを私が考えても、所詮人々は大した学者でもない外道の先生を好みますし、彼らに惑わされています。私にはあなたが見えていますが、とはいえ如来の加持の力もありませんので、私には何ともしようがありません。」
すると文殊菩薩はディグナーガが書きはじめた『集量論』の石板を手に次のように語ったのである。
「息子よ、そんなことを言うではない。それは劣った乗の境地に落ちて良くない考えに執着していることだ。あなたの書こうとしているこれは、外教徒たちには決して邪魔も反論もできないものであり、それは私がしっかり分かっている。あなたが無我を現観し、菩薩の地を得るまでの間、私があなたの善知識を努めよう。将来この書物は、すべての論書のなかのたったひとつの慧眼となるだろう。」
文殊菩薩はこう激励すると同時に姿を消し、石板はその場にそっと置かれていた。
ディグナーガは文殊菩薩のその加持を励みとし、そのまま洞窟に籠もり集量論』とその自注を完成させた。その後多くの弟子を養成し、弟子のイーシュヴァラセーナ(Īśvarasena)には『集量論』の口伝は保持させたが、それはダルマキールティ(Dharmakīrti)に伝えられるものとなった。ダルマキールティはイーシュヴァラセーナから三度講義を受けたが、二度目には聞いた時にはディグナーガの密意を完全に理解し、三度目にはイーシュヴァラセーナの誤った理解をすべてを知ることとなり、『集量論』に対する詳しい註釈書『量評釈』(Pramāṇavārtika)を著作し、合計七部の論理学書を残した。こうして仏教論理学の根本経典である『集量論』とその註釈書である『量評釈』をはじめとする著作群が整備された。
ダルマキールティは最初から初地の菩薩であったとされるのに対して、ディグナーガは生涯師ヴァスバンドゥの弟子として、唯識派の思想を貫き、厳格な戒律にしたがい、洞窟を好み行住座臥し、晩年は森で静かに涅槃を迎えたとされている。
こうしたディグナーガの瑜伽行者であり仏教論理学の開祖としての伝記は、後の仏教論理学派のダルモーッタラの『量決択註』(Pramāṇaviniścayaṭīkā)にも記されているものであり、チベットの仏教でも極めて重視されてきた。この時の石板は後に文殊菩薩がチベットで仏教論理学の伝統が花開くようにとチベットの大地に埋められたとされているし、ディグナーガは、凡夫の僧侶の姿を取り続けながら、論理学を大成し、行者として洞窟に籠もって真摯に仏教と向き合ったその姿は心からの畏敬の念で見られている。
弊会の創始者のケンスル・リンポチェも様々なインドの論師のなかで最も尊敬する方は、ディグナーガであるとおしゃっておられたし、ここで多少長くはなったが、ディグナーガのこの生涯を紹介したのは、筆者が最初に論理学の概論であるドゥラを学ぼうとしていたとき、師がこのエピソードを教えてくださったことを踏襲したものである。
このエピソードが教えてくれるのは、ディグナーガが目指したものとは、私たち普通の人間が釈尊の教えとは正しい認識に至ることであり、ひとりで論理を組み立て、それが正しい認識なのかどうか、正しい命題を自分は理解しているのか、正しく見える偽物と地力で区別し、最終的に解脱と一切相智へと至るために必要な論理、正しい認識をひとつに集成するということである。
これは私たちが他人の教えを無条件に受け入れるのではなく、常に客観的な現実を直視し、その現実の直視に基づいた、事実関係に基づく推理を行い、論理的に命題を組み立てて、無我に至ることことが唯一の仏への道を開く鍵であるということを教えるものである。
私たちは時には間違った道を歩んでしまう可能性もある。しかしながらそんな場合でも、ひとり自分で軌道修正できるようにならなくてはならないのであり、自己の過ちも自分の力で修正していくための方法、これが仏教の正理にほかならないのである。
仏典のすべての言葉から正しい論理と認識をひとつの体系にまとめたのが『集量論』であり、その註釈書『量評釈』もまた、解脱と一切智を目指すための論理を説いているものである。チベットにそれらの仏教論理学の伝統が伝わり、チャパ・チューキセンゲは「心の闇を払拭する書」と題する書をこれらの論理学書の概論としてまとめているのであり、ツォンカパも「此岸が見えている者が現実の心理を確定するための唯一の門」と論理学のことを形容している。
ツォンカパの後継者であるギャルツァプジェもまた、『集量論』の註釈書の末尾では「ディグナーガやダルマキールティの無垢なる正理の道を少しも理解しないで、最近は寂静処において修行して成就する、と言っている者たちは、不可能な出来事が起こり得るという見方に等しいのである」と仏教論理学を知ること、すなわち如来たちの論理を知ることこそが、解脱と一切相智を実現するものに他ならないと述べている。
『集量論』からゲルク派の論理学書にいたるまで、それらは如来のことばの論理を概括するものであり、その概括というのは、自分で無我を確定できるようになることを目指すものにほかならない。本偈では『集量論』『量評釈』などの仏教論理学の体系をまとめた概論の全体構造が五つに分けられるものとして俯瞰する。最初が対象領域であり、知るべきものとなる有法、これは基体と属性のうちの基体となるものであり、すべての法類を分類する上での根となるものである。対象・客体とは一体どのようなものかを説明し、その上で、それを様々な観点から分類した法類の個々の項を提示する。そしてそれらの個々の項目の関係や集合体、因果関係などを含めた様々な規定をなし、その上で無我を確定するための帰謬法とはどのように構成され、それによって無我をどのように確定して、中観の思想を確定するのか、というこの五つの項目が梗概であると本偈ではまず提示している。
仏教の概論・梗概というのは、仏教の歴史や仏典に説かれていることを初学者のために、分かりやすくまとめた要約版なのではない。また仏教の認識論や論理学というのは決して観念的で抽象的な言語ゲームではない。仏教の認識論や論理学とは、如来たちの認識や論理を自力で再現するためのものであり、聞思修の智慧を生み出す時の、思・修以降の正しい智慧を生み出すためのものである。それは現実の世界を生きる私たちが、この現実の歩み方をまとめたものであり、それは以前に『水の教え』でもみたように、私たちはひとりで泳げるために時々掴むべき水泳の補助道具のようなものなのであり、私たちがひとりで立って歩いていくための正しい歩き方にほかならないのである。