2020.10.22
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

未来無限の衆生のために学ぶ

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第2回
訳・文:野村正次郎

梵天は将軍と称し奢っている

欲界の諸天は慢心し享楽する

不条理を正す智慧を追い求め

正しく学究せんと求める者よ

教誡を授けよう 聞きなさい いざ

2

学問の象徴、文殊菩薩に対して敬意を表明したのに続き、本偈では、本詩篇の著述の宣言、聴聞の要請、著述目的、想定する読者の特定を行っている。梵天や欲界の神々がこの世間において傲慢に振る舞い、享楽的に生きている様子を述べ、その不条理を正そうとする智慧を求め学究する者が本詩篇の読者として特定されているが、これはここで述べようとしている学問が世間の学問ではなく解脱と一切相智の境位を目指すことを示し、そうした学問を如何に探求すべきか、について、これから教誡を語るので、聞きなさい、という内容の著述宣言をしている。

伝統的に、仏教を学ぶことの目的は、暫定的な目的である増上生と究極の目的である決定勝の二つしかない。増上生とは死後に人天の善趣へと転生することであるが、これは究極的な目的である決定勝、すなわち解脱と一切相智の境位を獲得するため、暫定的に善趣へと転生し学問を継続し、学問を極めるために行うものであり、それらのすべての学問の最終目的は、解脱と一切相智の境位に他ならない。だからこそ、仏教に関する学問は、最低でも死後の事柄、来世以降のことを目指しているものでなければならず、現世利益である財産や権力や名誉のためでは決してあってはならないのであり、神々へと転生して、欲望の対象を思う存分楽しめる、魅惑的な現世である、享楽的な生に耽溺するためでは決してないのである。仏教を学ぶということは世間の学問を学ぶことではなく、出世間の学問を学ぶということなのであり、このことを忘れて仏教に関する学問は成立しない。

世間の学問というのは、あくまでも現世利益や輪廻における繁栄を目指して行うものに過ぎない。その価値はあくまでも比較によって感じられる相対的な価値観に立脚するものである。ある状態がある状態よりも快適であることによって生み出される快楽や、他者との競争によって得られる充足感など、これらのすべては相対的な快楽に過ぎないのであって、仏教ではそれらのすべては苦しみに過ぎないものであり、これを壊苦と呼んでいる。

世間の学問のなかには、仏教が目指す学問に役立つものももちろんあり、その学問教養を身につけることで得られるものには、菩薩の利他行に役立つものも多くある。技術工芸・芸術などの工巧明、医学・植物学・薬学・天文学などの医方明、文法学・修辞学・言語学・文学などを含む声明、弁証法や論理学などの因明、これらは菩薩も習得しておくべき学問であるが、あくまでも外的なものであり、社会的なものに過ぎない。これに対して自分の精神を修養し、自己の思想を形成し先鋭化するもの、解脱と一切智を目指す内明は、仏教を学ぶことそのものである。

内明以外のほかの学問は、すぐに社会にその学問の利益を還元できる、最初から現世利益を目指した実学である。社会の発展のためにはこの実学は必要なものであり、公的な教育・研究活動はそれぞれの行政が力を入れて行うべき未来のための公共事業にほかならない。しかしながらこの実学を社会で支援しているのは、特定の社会で能力を発揮することのできる人物を養成するためなのであり、世間の公共事業への投資効果は、実際の社会や国家に物質的・相対的な繁栄をもたらすものである。

これに対し、内明は出世間の学問であり、特定の国家や集団のために物質的・相対的な繁栄をもたらすために行うものではない。だからこそこの学問に社会にすぐに利益を還元できる人物を育成することを期待するのは過剰な期待にほかならない。通常仏になるための修行には通常三阿僧祇劫という長い時間がかかるのであり、そんな壮大なプロジェクトに社会が投資し続けていくのも限界がある。出家して数年後には成道し、無量の衆生たちを導いていけるという投資効果を望むのは無理難題であるし、解脱を求め修行をする僧侶たちに、年度末ごとに、どれだけ社会に貢献できる成果を残したのか、といった実績報告をさせるような監視体制を築くのは出世間の学問に相応しくはないだろう。

このようなこともあり、内明の学問を行おうとする人は、最初から社会的な役割から解放されている状態にある方が、その学問を志す者にとっても、社会にとってもよいことであり、通常の世間での通常の社会的役割に参画していない状態をつくりだすことが出家というあり方なのである。

出家した者たちは社会的・経済的な現実社会から敢えて距離を置くことによって、社会の延長線上にある輪廻そのものへの嫌悪感を強め、その反動によってこの輪廻から解脱し、一切衆生の真の幸福のために、その解脱にいたるための方法を説き、他の衆生を救済することができるようになる。これはまずは社会的役割から解放され、他者との比較や競争、そして物質的・相対的な繁栄を目指さなくてよい状態でのみ実現することができる、絶対的な幸福である解脱の境地、あるいは絶対的な社会への利益還元たる、一切相智の境位をもたらし、そのことによって計り知れない恩恵を無限の衆生の社会が受けることができるようになることを目指す、という壮大な企画なのである。

仏教の学問には、世間の学問と共通するものと出世間の学問との両方を学んでいかなければならない、という点にその難しさがある。その両方をどのように学べばよいのか、これについては、釈尊の青年期、出家、成道へ至る過程というものを振り返って考えてみるのがよいだろう。

釈尊は釈迦族の王子として生まれ、文法学から象の調教方や音楽や芸術にいたるまで、すべての世間の学問を学び、すぐざま超一流の能力を発揮している。その上で物質的・相対的な繁栄である王子としてのありとあらゆる贅を尽くした生活を享受した。ヤショーダラーをはじめ五百人の妃を迎え、ラーフラという子供をもうけ、王子としての役割をすべて全うした。しかしながら、釈尊はこのようなことでは何も根本的な問題は解決しない、ということを教えるために、そのすべてを投げ捨てて出家して、出世間への道を歩み始め、六年間も苦行を経た後に、ネーランジャラー河のほとりに赴いて成道されている。

釈尊の青年期の超人的な能力から考えれば、六年間という苦行は、大変な長い時間であり、そのことは仏になる、ということは如何に精進が必要であり大変なことなのか、ということを教えるために、実際にその苦行や精進のあるべき姿を見せたとされている。

そして最終的に得た境地を衆生たちに教え、その同じ道を歩まんとする者たちのためには、竹林精舎をはじめとする必要最低限の僧院生活の環境を弟子たちと整え、活動されている。これは通常の世間的な婆羅門の学問では不十分であり、釈尊のような仏が数多く育成しようと願ったビンビサーラ王などの力によって成立したものであり、出世間の稀有なる学問を支援する稀有なる施主などの存在により、この仏教という稀有なる学問は継続してきたのである。

幸い私たちの日本は、世間的で物質的・相対的な繁栄を実現するための学問は発展し、教育水準も非常に高く、世界有数の経済大国であり、先進国である。それと同時に精神文明を重んじる伝統もいまも継続している文明国家に私たちは住んでいる。ダライ・ラマ法王がいつも日本に来られるたびにお話になられていたが、このような環境に住んでいる我々には、世間の学問と出世間の学問を両方とも発展させながら、来るべき未来の人類や地球に棲んでいるすべての生命体に貢献できるような学問をすることができるのであり、我々にはその責任があることだけは確かなのであろう。今後我々がきちんと世間と出世間の学問を正しく修め、古い仏教国のひとつとして未来の無限の衆生の社会に貢献できるかどうか、これは我々の日々の志次第ではないだろうか。

デプン・ゴマン学堂の小学生たちは今年はきっとお休みを満喫している

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