2020.10.21
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

いまもう既に如来の代理人は存在する

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第2回
訳・文:野村正次郎

四つの真顔は賛辞のことばを語っている

千の眼差は直視し永遠に降り注いでいる

快楽の主宰者さえ虚心となり君には跪く

勝者の代理人 君の足下に私は礼拝する

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如来を示す十号に「師」(śāstā)「天人師」というのがあり、これは釈尊をはじめとする諸仏は私たち人類のために説法をしてくれる存在であるだけでなく、神々たちにとっても師でもあるということである。

釈尊は神々の祝福を受け誕生し、梵天によって勧請にされて法輪を転じられ、神々や人間だけではなく、阿修羅、龍やガンダルヴァなどのさまざまな衆生を歓喜させたように弥勒仏も世間に降誕される時「私はこの場所に最後の生を受けてきた。私はこの世間のなかで最も勝れた仏である。」と全世界に宣言され、若い時は普通の人よりもはるかに豊かな暮らしをするが、そのすべてを投げ捨てて出家し、実際に成道の仕方をこの閻浮提で人々に見せ、法輪を転じられ、役目を終えられると衆生を鼓舞するために涅槃を示現される。これら弥勒仏の未来の最勝化身としての行状は別段特別なものではなく、釈尊より前の三人の仏たちも同じような活動をしたのであり、釈尊がそのような活動をしたことは周知の如くである。

弥勒仏は、未来に私たちに釈尊の代わりに説法をしてくださる存在であるので、私たちにとっては遠い未来に私たちに関わってくれるのは分かるが、少し遠い存在であることも確かであろう。未来のことなど分からないという思いは、現在の弥勒仏の存在を感じにくくしている。これは私たちが目先のことしか考えていないことが原因であるが、同時に私たちの能力があまりにも低く、私たちのいまの寿命があまりにも短いこともひとつの原因である。現状では兜率天におられる弥勒仏の説法を私たちが聴聞することすらできないことは紛れもない事実ではある。

弥勒仏が他の如来と違った私たちに特別な関係をもっていることを感じるためには、弥勒仏が釈尊の代理人として、現在兜率天で説法をされているというこの事実を理解することからはじめなければならない。その説法は我々人間にはいまは聴聞できないものではあるが、しかしながらいま現在存在している地上の世間のすべての神々にとってそれは聴聞可能であり、その功徳を知る者たちはいま既に弥勒仏を礼讃している。たとえば四つの顔をもっている梵天(ブラフマン)は賛辞の言葉を語るであろうし、千の眼をもちこの世間の頂点に君臨する神々の王である帝釈天(インドラ)は、眼差しを弥勒仏へ向けてその挙動に注目しているし、快楽の主宰者であり、歓喜の創造主である大自在天(イーシュヴァラ)も諸仏の前にすると虚心坦懐に跪いて、心からの礼拝を行っている。本偈ではこのような世間の神々のなかでも頂点に君臨する者たちが既にいま弥勒仏の面前では、釈尊に対するように敬意をもって礼拝や供養をしているということを示唆している。

これらの神々は、大変長寿でもあり超能力を持ち合わせ、私たちには感じられない弥勒仏の功徳を実際に熟知する能力をもつものである。彼らは長寿であるので、弥勒仏がまだ成道される前の菩薩の時代からどのような修行をしてきたのかを目撃し、いま兜率天でどのような説法をされているのかを実際に聴聞しつつあり、今後釈尊の代理人としてのこの地上に降りてきてどのような活動をするのか、ということを当然のこととして熟知している。神々のなかでも主要なものたちは如来の教えのおかげで、自分たちは単に輪廻から解脱できていない存在に過ぎないことを知っており、自分たちよりも勝れた存在である如来に対しては深い敬意をもっており、釈尊の全権代表である弥勒仏に対しては、ほかのすべての如来よりもその動向に注目しているのであり、釈尊の代理人たる弥勒仏のいま現在の存在を明確に意識している存在である。この事実を再確認し、自分もまた弥勒仏の足下に五体投地して合掌礼拝したい、その意思表示をジェ・ツォンカパ自身が行っているのが本偈ということになる。

このように弥勒仏の存在を考える上で、最も重要なことは、現在もう既に、釈尊の代理人となっている、ということではないだろうか、と思われる。というのも、弥勒仏のその現在の状態は、釈尊が関わって作られた状況にほかならず、釈尊はいま既に涅槃しておられないが、次には釈尊の代理として私たちに仏法を説いてくれていることは、確実に決まっているのであり、いま現在の段階では未だ釈尊の教えが残っている状態であり、弥勒仏が我々に急遽説法をしに来られなければいけないほど、仏法が滅し逼迫した緊急事態には至っていないとも言えるからである。

つまり私たちはいま幸いなことに感じようと思えば、いま現在世間の神々たちからも崇拝されている弥勒仏の存在を感じることができるのであり、いまのところは釈尊の説かれた教えをきちんと学んでおけば、当面のところは難を凌いでいくことができるということなのである。それはつまりたとえいまの世界情勢や自分の置かれている状況を否定的に考えて絶望してしまう必要はまったくないということなのであろう。

今後時を重ねていくにつれ、人類がいま護持している釈尊の教えは次第に滅していき、世界戦争や疫病の蔓延、そして大規模な飢餓が起こったりしながら、人類の平均寿命は十歳くらいまで落ち込んできた時、弥勒仏はこの地上に僧侶の衣をまとって美しい姿で現れ、人々にお互いに煩悩を炸裂させて暮らすことをやめて、何事にも忍耐をし、十善を実践することの大切さを説く、といわれている。しかしながらいまはまだそこまで状況は逼迫しておらず、私たちは釈尊の説かれた教えを思い出し、実践することで明日をどのように生きるのか、ということはそれほど苦労しなくても分かるのである。そして同時に、このいまの状況は天空の兜率天に弥勒仏がいま釈尊の代理人として待機されている状態であり、既に神々たちが広大な供養をしてくれている状態でもある、ということを感じることができる状態にある。この状態はちょうど学生が夏休みや冬休みの間、教わったことを自分のペースで復習して、自由学習に勤しんでいる状態にもよく似ているだろう。

兜率天の神々たちに「絶望する必要はない」と釈尊が全権を託した弥勒仏は、勝者の代理人であるということは、いま現在勝者の代理人が存在しているということでもある。そしてこの私たちの人類が住んでいる閻浮提では釈尊の教えがまだ十分残っているのであり、般若経を紐解き、釈尊の教えの核心を思い出すことが容易にできる状態にもあり、また兜率天からの使者を時々迎えて釈尊の教えの分からないところを教えてもらうこともできる状態にある。すべての衆生を幸せにしようとしている大慈の君である弥勒仏がいまは兜率天におられる、ということは同時に、私たちはいまそんなに不幸ではない、ということでもあるだろう。そう考えるとそんなに悲惨な状況に私たちがいるわけでもない、ということを感じることができると思われる。

弥勒仏のおられる兜率天からの使者であるジェ・ツォンカパ

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