知識だけではだめです。良い志をもって、それを実践すること、これこそが大切です。
現代の社会において、我々は「自分は人間である」「人類すべて自分と全く同じように幸福や苦悩を味わっている」と理解することは必須のことです。近年この地球で発生しているさまざまな問題がありますが、その根本的な原因は、自分だけの利益を追及し、他者を利用してやろうと思う以外には、他人に自分と全く同じような苦しみを望んでいない感情が有ると想像出来ない、このことにあります。
私たちのこの地球は目覚ましい発展を遂げました。今日では月へ旅行することもできるのです。しかし、私たちが生まれてから死ぬまでの過ごさなければならないこの地球上から、もしもお互いに敬い合い、愛し合い、慈しみ合うの気持ちが無くなってしまうのなら、私たちの人生はその拠り所を失ってしまう危険性があります。
他人を慈しむ気持ちは、値段を付けることが出来ないほど高価な物です。
たとえば、近所の人がとてもいい人ならば、自分だけではなく、他人もふくめたすべての人が楽しくなるでしょう。朝起きて寝るまでの間、やさしい心をもって一日を過ごせば、顔には微笑みがでてきて、他人との会話も楽しいものになり、夜寝る前にも、心は平安で楽しい気持ちでいることができるでしょう。もしも逆に朝から悪い心をもっているのなら、他人を罵ったり、他人に対して嫌悪感を抱いたりするかも知れません。たとえ相手と喧嘩して自分が勝つことがあっても、夕方になると自分の心のなかにどこかすっきりしない気持ちが残ってしまうのです。そして寂しい荒涼とした気持ちになる以外にはないのです。
このように悪い心を持っていれば、楽しい気持ちになることなどできません。わたしたち個人個人の気持ちにやさしさがあれば、周りの人たちもまた楽しい気持ちにすることができますし、心は平安になり、たとえ水しか飲物がなかったとしても、それを仲良く飲んで楽しく過ごせるのではないでしょうか。お互いに嫌い合い、苛め合い、嫉妬して過ごすのなら、それはどんなに高いお酒を買っても、その味をまったく味わうことなどできないのに等しいのです。
これはあくまでも私の考え方ですが、みなさんはどう思うでしょうか。もちろんこれが正しいか、どうかは皆さんそれぞれがご自分で考えて決めればいいことで、私が判断するようなことではありません。ですが、人間がどのようにしても値段を付けれない物、それが「やさしさ」です。薬局で「やさしさの素」のようなものを調合してもらって出来るようなものでもありません。街へ出掛けてゆき、「やさしさ」を買ってくることもできないのです。「やさしさ」というものが有るとしたら、それはあくまでも自分たちがそれぞれ考え実行していかなければならないものなのです。
もしも「やさしさ」をもっているのならば、それは勿論自分のためになるだけではなく、他人のためにもなるのです。そして、人生を意義深いものにすることができます。これは人類すべてに共通してに言えることなのです。すべての人がたとえどのように民族に生を受けたとしてもも、死に至るその瞬間まで、必ず他人と一緒に暮らさねばなりません。ですから他人と一緒に何かをする時、他人を大切にし、「やさしさ」をもって接する必要があるのです。そしてそういう気持ちをもつことができるのなら、自分自身もまた楽しくなることができるのです。大乗仏教で説かれている「人間のみならずすべての生きとし生ける物に思いを向けなければならない」という「強い責任感」(増上意楽)というものもまさにこれを根源としているのです。
1973年1月9日・デリーにて
bKa’ slob phyogs bsdus. Dharamsala, 1986.
訳=ゲシェー・ロサン・チャンパ+野村正次郎