第二の経量部の学説の規定には、E1定義・E2分類・E3語源解釈・E4主張内容との四つがある。
E1 定義
自己認証と外部対象との両方を真実として思い込むことにより承認する小乗の学説論者、これが経量部の定義である。経量部・例示学派は同義である。
E2 分類
これを分類すれば、聖典追従派経量部・正理追従派経量部との二つが有り、前者は例えば『阿毘達磨倶舎論』に追従する経量部であり、後者は例えば「量七部書」に追従する経量部である。
E3 語源解釈
「経量部」「例示学派」と述べれられる理由は有る。『大毘婆沙論』には追従せず、主に世尊の経に基づき学説を論じるので「経量部」と呼ばれ、一切法を喩例を通して示すので「例示学派」と呼ばれるからである。
E4 主張内容
E4主張内容については、F1基体の主張内容・F2道の主張内容・F3果の主張内容との三つが有る。
F1 基体の主張内容
基体の主張内容については、二つ、すなわち、G1客体の主張内容・G2主体の主張内容。
G1 客体の主張内容
知によって認証されるもの、これが客体の定義である。知の客体となり得るもの、これが、所知の定義である。客体・有・所知・基体成立は同義である。これを分類するとH1二諦への分類・H2自相と共相への分類・H3否定と肯定への分類・H4現前態・隠匿態への分類・H5三時への分類・H6同一・別異への分類が有る。
H1 二諦
言葉と分別によって仮設されているものに依らず、対象それ自身の実相の側から、正理によって考察するに耐えるものとして成立している法、これが勝義諦の定義である。事物・勝義諦・自相・無常・有為法・真実成立、これらは同義語である。単に分別で仮設されただけのものとして成立している法、これが世俗諦の定義である。非事物法・世俗諦・共相・常住・無為法・虚偽として成立しているもの、これらは同義語である。
二諦の語義説明は有る。無為虚空、有法。「世俗諦」といわれる。世俗者の知にとっては真実であるからである。この世俗者とは分別のことであり、自相が現量に見えるのを隠蔽しているので「すべての点で覆われているもの」(世俗者)といわれる。しかしながら、これも単なる語源解釈に過ぎないのであり、世俗者たる知、つまり分別にとって真実であるからといって、必ずしも世俗諦であるという訳ではない。勝義諦の定義基体たる「瓶」なども、世俗者の知。つまり分別にとって真実であり、一方、人我や声常住は、世俗者たる知つまり分別にとって真実であるけれども、言説としても成立していないからである。瓶、有法。「勝義諦」といわれる。勝義者の知にとって真実であるからである。この勝義者の知とは顕現客体に対して迷乱がいない認識を指している。
以上のこの二諦の設定形式は正理追従派の経量部の学説であり、一方、聖典追従派の経量部は、二諦の設定形式は毘婆沙部に同じであると承認している。
H2 自相と共相
勝義として実用性のある法、これが自相の定義である。定義基体は、たとえば壷である。勝義として実用性のない法、これが共相の定義である。定義基体は、たとえば無為虚空である。普遍・特殊、同一・別異、対立・関係といった増益された諸法は共相だが、それらであるからといって必ずしも共相ではない、という峻別が必要である。
H3 否定と肯定
否定対象を直接排除したことで理解されるもの、これが否定の定義である。これと他者排除は同義である。これを分類すると、絶対否定・相対否定の二つがある。それ自身を直接理解する知がそれ自身の否定対象を単に排除しただけのものであると理解されるもの、これが絶対否定の定義である。たとえば「婆羅門は酒を飲まない」である。それ自身を直接理解する知がそれ自身の否定対象を排除したその代りに、それ以外の法である相対否定・定立のいづれかを導出しているもの、これが相対否定の定義である。たとえば「肥えた提婆達多は午後には食してない」である。それ自身を理解する知がそれ自身の否定対象を直接排除したことで理解されるものではない法、これが肯定の定義である。定義基体はたとえば「瓶」である。
H4 現前態と隠匿態
現量量により直接理解されるもの、これが現前態の定義である。これと事物は同義である。比量により直接理解されるもの、これが隠匿態の定義である。これと所知は同義である。
H5 三時
何らかの他の事物であり、それ自身の成立時の第二刹那時に滅している部分、これが過去の定義である。何らかの他の事物であり、それ自身が生じる原因は有るけれども、不十分な縁の力によって、ある特定の場所と時に未生の部分、これが未来の定義である。生じているが滅していないもの、これが現在の定義である。過去・未来の二つは常住であるが、現在・事物は同義であると主張している。ある事物の過去はその事物の後に成立しており、ある事物の未来はその事物の前に成立しているものである、という峻別をする必要がある。
H6 同一と別異という分類
別々のものではない法、これが同一の定義である。たとえば壷である。別々のものである法、これが別異の定義である。たとえば「柱と壷の二つ」である。別異個体であれば別異孤立であるけれども、別異孤立であるからといって別異個体ではない。何故ならば、所作と無常の二つは、同一個体であるが別異孤立であるからである。
付論
これ以外にも無方分極微・無刹那分認識を承認することは毘婆沙部と同じだが、すべての点で一致している訳ではない。何故ならば、毘婆沙部が有であると主張する限り、それは実体として成立しているもののことを指しているが、経量部はそのように主張しないからである。無表業色についても毘婆沙部・帰謬派の二者は真の色であると承認するが、経量部・唯識派・自立派の三者は真の色ではないと主張しているからである。それ以外にも毘婆沙部が同時因果を主張するのに対し、経量部以降はそのようには主張しないからである。
G2 主体の主張内容
主体の主張内容については、人・認識・言表主体である声との三つが有る。
H1 人
〔人については〕聖典追従派は蘊の連続体を人の定義基体と主張し、正理追従派は意識を人の定義基体であると主張している。
H2 認識
認識については量知と非量知との二つが有る。量には現量と比量との二つが有り、現量には、感官現量・意現量・自己認証現量・瑜伽行現量という四つがある。有色の感官は量とはなり得ない。明照認証を欠いており、自身の客体を計量できないからである。非量知には、既定知・誤認・疑念・憶測・顕現不確定知の五つがある。それら〔量知・非量知〕のなかで、現量・顕現不確定知の二つは、離分別で不錯乱であるが、比量・憶測・疑念の三つは、分別のみである。認識が客体を計量する時には形象を伴って理解し、心・心所は同一実体である、と主張している。
H3 言表主体である声
それ自身にとっての言表される対象を理解させる聴取対象、これが言表主体である声の定義である。これを言表対象の観点で分類すれば、種類を言表する声・集合を言表する声の二つがある。前者はたとえば「色」と言表する声である。後者はたとえば「壺」と言表する声である。またこれを言表する形式の観点で分類すれば、法を言表する声・有法を言表する声の二つが有る。前者はたとえば「声の無常」と言表する声である。後者はたとえば「声無常」と言表する声である。
F2 道の主張内容
道の主張内容について三つ有り、そのうち〔第一の〕道の所縁は、四諦の行相たる無常等の十六個というこのことであるが、微細無我・微細人無我を同義であると主張し、常住・単一・自在な人我に関する空を粗大人無我であると主張しており、人が独立自存の実体として有ることに関する空を微細人無我であると主張している。〔第二の〕道の所断には人我執・染汚無明・不染汚無明等といった表現上の差があること以外に法我執・所知障などを承認しない点で毘婆沙部と一致している。〔第三の道の規定について〕三乗の道に五道の規定をし、智・忍の十六刹那を見道であると主張している。現量の顕現客体であれば自相であるので、微細人無我は見道の無間道の把握形式上の客体であるとは主張しない。何故ならば、それが人我を欠いた有為を直接計量する代りに微細人無我を証得すると主張しているからである。
F3 果の主張内容
阿羅漢が断・証から堕落することは有り得ないこと、仏陀の色蘊は仏陀であると承認し、それ以外の三乗の果を現証する仕方等は毘婆沙部と一致している。毘婆沙部と経量部の二派は大乗蔵が仏説であることを承認しないが、後代の人々のなかに仏説であると承認する人もいたと言われている。
正理のテキストに善く通暁した力により
正理に追従する例示派の人々の
正理の密辞を如実に述べたこれが
正理論者により饗宴となされんことを
これは中間偈である