チベット仏教はインド仏教のさまざまな伝統を受け継いでいます。大きく分けて、チベット仏教では僧侶の生活習慣や規則については小乗仏教の伝統を中心とし、心の修練の方法については大乗仏教を中心とし、祈祷などの儀式については大乗仏教のなかの密教の伝統を中心としています。
チベットのお寺が「寺院」(ゴンパ)と言えるためには、二百五十三戒からなる具足戒を授かって一〇年以上経過した四人の比丘からなるサンガが「根本の三儀軌」と呼ばれる、布薩・夏安居・自恣請の儀式を行なっていることが最低条件となっています。そのような組織を「寺」(ゴンパ)と呼んでいるのです。我々が昨年から日本ではじめての正式な寺院としての活動を開始できたということはこのことによっています。今回はこのなかでも最も頻繁に行われることになっている「布薩」の儀式についてご紹介したいと思います。
「布薩」とはサンスクリット語では、ウパヴァサタといい漢訳はそれを音写したもので、チベット語ではソジョンと言います。ソジョンというチベット語の意味は、罪を浄化して善を養うという意味をもっており、犯してしまった罪を懺悔して、その犯してしまった罪によって戒律が損なわれてしまうのを止めて、もう一度その戒律を心のなかに復興させる役割をもっています。
布薩は通常十四日か十五日および二十九日か三十日かの二回行い、僧侶は法衣をもって本堂にあつまり、五体投地を何度もして、懺悔文や『別解脱経』『般若心経』などを唱える儀式を行ないます。これは自らを反省し、具足戒の箇条を読み上げて、違犯してしまった罪を懺悔する儀式です。左上の写真2や3はこの罪を懺悔している写真で、4は五体投地をしている写真です。
布薩のときに罪を懺悔するといっても、「あそこの階段でこんな虫を殺してしまいました」というように具体的に違犯した事項を告白して懺悔するわけではありません。もちろん自覚している罪は懺悔しなければならないものですが、我々が自覚していなくても犯してしまった罪というものは沢山あり、それらも懺悔しなくてはなりません。我々が布薩を行なう時には、無始時以来の輪廻の過去から現在にいたるまで為してきた罪業のそのすべてを懺悔するのです。
またこの布薩の儀式は、お寺の行事のなかでも最も大事な儀式です。たとえばデプン寺では、ゴマン学堂の僧侶もロセリン学堂の僧侶も両方ともがデプン集会堂(ツォクチェン)に集まって布薩の儀式を行ないますので、両学堂ともお寺としては「デプン・ゴンパ」と言われるのです。
仏教の教えでは為した罪を懺悔しないて放っておくと、罪業はどんどんと増加する性質にあると説かれています。為した業は心のなかに蓄積されるものですので、その増加のスピードは、外界のものと比べると数百倍・数千倍の増加率があると言われています。
たとえば、ひとつぶのトウモロコシを畑に植えるとそこから何百粒、何千粒というトウモロコシを収穫することができます。これがあくまでも外界の世界の因果関係ですが、心のなかの因果関係はこれよりもはるかに大きな増加率をもっていると言われています。ですので、たとえば虫を殺してしまうというほんの小さな罪を為したとしても、それを放っておくとどんどんとその罪業は増加してしまうのです。ですので、どんな小さな罪業であっても、それを為したら直ぐに反省して、二度としないように懺悔する必要があるのです。
同じことは善業にも言えます。どんな小さな善業であっても、その善業は悪業を行なわない限り、どんどん増えていくのです。それが究極的な状態に達した状態を我々は仏の状態であると言っているのです。
ブッダとかさとりというものは、誰しも非常に遠い到底到達できないような境地だと思うかもしれません。しかしそれは間違った見方です。釈尊ですら、前世では大泥棒であったこともあるのですし、我々と何ら変わらない人であったのです。いま私たちは、この得難き人身を受け、仏法に出会うというこの上ないよい機会を享受しています。ですからこの機会を無駄にしないで、なるべく善業を積んでいくようにしなければならないのです。
もしも善業を積んだのならば、「廻向」しなくてはなりません。これは善業を貯蓄する銀行に定期預金をするのと同じようなことです。善業は怒りによって瞬時になくなってしまいます。善業を積んだのならば、この積んだ善業がすべての衆生が仏になるための糧になりますように、という廻向の祈りを捧げることが大切なのです。
布薩の儀式はこのように僧侶にとって大切な儀式のひとつですが、より大切なのはこの布薩の時と同じような犯した罪を懺悔しなくてはならないと思う気持ちが大切です。毎日自己反省して、よりよい明日を生きるように心がけることが大切なのではないかと思われます。