常に捉み 時に捉み 捉まずに
順を追って泳ぎを習ってゆくように
順を追って言葉に依存する
聞思修という三つが説かれている
本偈は、水泳の習得過程を、聞思修の修習過程に喩えたものである。
泳ぎを最初に覚える時は、最初はビート板や浮輪などの浮力のある補助具に常に捉まってまずは手足の動き方を練習する。
ある程度手足の動き方を習得できたら、次に、それらを使用しつつも完全にはその浮力に依存しないで、自身の身体の浮力を使い水面を進み、補助具を用いながら、手足のフォームや息継ぎなどを微調整する。
次に補助具は使わずに、フォームを微調整し、泳ぐ速度や泳ぐ距離を伸ばしたり、緩急をつけて泳ぐ練習をする。自力で水泳できるようになったからといって、水泳を完全にマスターした訳ではなく、更に水泳の質を高め、様々な競技大会に参加し、経験を積んでゆくことで、最終的には世界大会などで優勝できるようになる。
この過程において、最初は常時補助具を使用しており、その次の段階では、時に応じて補助具を使用し、最後には補助具を使用しないで水泳法を習得してゆく。
仏教の学習方法もまたこの水泳の習得と同じように、聞思修の過程において、最初の「聞」の過程においては、釈尊や祖師や善知識の他者の言葉を常時参照しており、その次の「思」の過程においては、時に応じて他者の言葉を参照し、「修」の過程においては、他者の言葉を参照しないで、習得していく。この対応関係を本偈では説いている。
釈尊や祖師たちによって伝承され、私たちに与えられている教えというのは、あくまでも他者の言葉の伝統に過ぎない。それは他者の思考によって由来するものであり、言葉を受け取り、言葉が表現する内容を、自己の思考において再現し、その思想は自己の思想へと昇華することができる。
最初は、仏の言葉を「聞」く。この作業は、言葉と意味の両方を聞き、内容的には経・律・論の三蔵、もしくは内明・声明・因明・医明・工巧明よりなる五明処を聴聞する。これらの他者の言葉を朗読したり、書写したり、暗唱したりすることによって、自分自身の言葉へと取り込んでゆき、そこに示されている他者の思想を自身の思想として受容し、その言葉が意味する事項について正しい判断能力を備えることができるようになる。この言葉に基づく判断能力を「聞所成の慧」と謂う。
これが出来るようになったら次に、この他者の言葉を適宜参照しながら、四種道理などの教証や論理によって正しく思惟し、その表現内容に対する正しい確定を導き出してゆく。この思索が「思」といわれるものである。その際にもまずは教説の文言そのものを思索し、自分自身の問題としてその言葉を真摯に受け止め、その意味内容を心に浮かべてゆく。次に、そして釈尊や祖師たちという他者の思索を、自分の思索として自分の心に再現してゆく。最初はひとつの言葉が多くの意味で使われていることに思索を深め、また一つの意味に対して様々な表現が使われているものを思索していく。それらが出来るようになれば、五蘊・十二処・十八界・四諦十六行相・二無我などといった法数を勘定する思索をし、思考の分岐を正確に行えるようにする。そしてさらには、それらに通底する論理構造を基に思考形式そのものを再現する思索を行なってゆき、その再現が正しく行われ、表現されている事項についての確定が起こる時、「思所成の慧」が起こるのである。
この「思所成の慧」は主に論理に基づく分析によって得られる推理知を指している。この推理知は、自性証因・所作証因・非認識証因の三つの正しい証因によって、計量対象に対する確定知を導き出す認識であるが、その推理は「四種道理」と呼ばれる論理によって構成されている。それは、ある現象が有る時、その現象が起こるために依存している原因や条件が存在しており、結果に基づいてその原因を推理する際に思考対象となる「観待道理」、ある者が存在している時、そのもの自体がもつ能力や作用によって、作用に反応した影響が起こることから、そのものの動的な本質を理解する際に思考対象となる「作用道理」、ある現象を推理するためには、その現象が起こることと不可離の関係にある証因に基づいてそれを推理する際に思考対象となる「証成道理」、ある現象が起こっている時、その現象自体のもつ本質やその発生形式に基づいて波及した現象があり、それはその現象のもつ性格の一部であることから、その現象そのものを理解しようとする際に思考対象となる「法爾道理」という四種の「道理」がある。これらの四種道理に基づいて無常や無我に対する正しい推理を行うことができるようになり、それらの対象に対する確定知が起こったのならば、その確定知を何度も何度も様々な認識対象に適用していくことによって、一切法についての無我や空性というものが推理によって理解できるようになる。
このように推理によって対象を確定できるようになったら、今度は聞思の対象に対する誤った思考を排除し正しい認識によって確定しているその対象に対して止住・伺察をすることにより、精神がその対象から散乱せず、内省状態を持続し、その対象や意味内容に繰り返し継続的に精神の志向を定着化させる作業を行う。これを「修」「修習」という。修習には、対象それ自体に精神を止住させるものと、正理によって確定した命題的態度である伺察との二種類しかないが、それを繰り返し修習することによって、「止」あるいは「観」というものを得ることができる。
本偈では、水泳の習得の際に補助具を使用せずに、さらに速度や緩急、様々なフォームを習得していく過程を修習の過程にたとえている。これは他者の言葉に依存した聞思によって確定した修習の対象に対し、我々の精神の輝度を上げ、精神の志向力を向上させることにより、現在の我々の精神に備わっていない功徳を備えることができ、既に備えた功徳を増大させることができ、罪業を積もうとすることを退けることができ、罪障に対する批判的態度をとることができるようになる。