日本では「道」といえば、「人のふみおこなうべきみち」や「八正道」「仏道」などからも連想されるように「仏教徒として修行すべきおこない」「仏の教え」などといって幅広い意味に使われている。
また「儒・仏・道」というように「道教」の教えの意味でもあったりして、多義に渡って使われる。「武士道」「茶道」「剣道」など日本の伝統芸能のなかで精神的な教えをも含めたものを「‥‥道」と呼んでいる。
しかし仏教では「道」とは明らかに「智慧」を表しているのであって、具体的な行動や基盤や教えではない。ゴマン学堂の教科書では「道」「解脱道」「智慧」「現観」「仏母」「乗」はすべて同義であるとされている。
つまり修行することによって得られた智慧を「道」と言い、それが最終的に得るべき結果へと至る道路として「道」と呼ばれるだけなのであって、具体的な「みち」ではない。たとえば四諦説において「道は修すべきものである」とあるが、これは智慧を繰り返し自分の心に起こすことによって、自らの智慧を研ぎ澄ましすべきであるということを説いているのである。
このように仏教用語の中にはもともとサンスクリット語の翻訳であるから、漢字から連想するだけでは意味を場合があるのがポイントである。