2015年頃から東京での法話会・研究会で学んで来られた和田賢宗さん(曹洞宗僧侶・東京大学大学院博士課程)がこのたび、ゴペル・リンポチェ、アボの二人の勧めもあり、本山デプン・ゴマン学堂へ留学し、これからハルドン学寮に入り、正式な日本からの留学僧として求道の道を歩むこととなりました。これまでも一時的にデプン・ゴマン学堂にて日本から仏教教理の学究のために滞在してきあことはありますが、正式にゴマン学堂の僧侶として在籍する留学僧としては日本初となります。和田賢宗さんに出立にあたり、いまの心境を寄稿していただきました。
留学にむけて/和田賢宗(東京大学大学院)
島根県にある小さな禅寺に生を受けて以来、私は仏の教えに囲まれて育った。
小学校に上がると、毎日朝早くから父と兄と一緒に本堂でお勤めするようになった。10歳の時に得度してからは、小僧として近くのお寺の法要や檀家の法事等に随喜させてもらった。中学生にもなれば仏教を勉強し僧侶として生きていきたいと思うようになっていた。この時はただ僧侶に囲まれて法要に随喜することが楽しく、父の説法をする姿を見て、自分も同じように生きたいと思っていただけかもしれない。
地元の高校を卒業して1年の浪人生活を終えたのち、私は早稲田大学に進学した。大学では歴史学を専攻し、2年生からは主に東洋史・東洋思想を学んだ。そこで出会ったのがチベットに伝わる仏教だった。不勉強も甚だしいもので、当時はチベット仏教が大変ローカルなものだと思っていた。チベットといえば秘境の地といったイメージがあったし、そこには何か神秘的な思想が広がっていると思っていた。
その後チベット仏教に関心を持つようになって、東京大学大学院へ進学しチベット仏教を専門に研究してきた。そして、今となってはチベット仏教こそが、インド起源の大乗仏教を余すことなく継承しているとさえ思っている。というのも、まずインドの仏典はチベット語訳されてチベットに伝わったのだが、その数が他の地域に比べ圧倒的に多いからである。さらに、チベット人僧侶はその仏典を満遍なく学習し、後世に継承してきたという歴史がある。一方、中国仏教の場合、漢訳されなかったインド仏典は数多くある。また、中国仏教の特徴として特定の仏典のみを所依とする宗派が多いことが挙げられる。日本仏教も中国仏教に倣っているため状況は似ている。しかし、ここで誤解して欲しくないが、中国に伝わる仏教や日本仏教を批判しているわけでは決してない。むしろ、それぞれの地域に伝わる限られた仏典や情報を頼りに、今日まで受け継いできた僧侶の努力には畏敬の念を抱いている。
ただ、中国や日本に流入してこなかった仏教思想が多くあるのも事実である。しかし幸いなことに、チベット僧院では今なおインド仏典の参究が盛んに行われている。かつて道元禅師は比叡山で天台教学を学んでいたが、それには満足できず宋へ渡った。そして帰国後には宋で師から学んだことを「正法」と呼んで修行を続けた。
「正法」という言葉から分かるように、道元禅師は曹洞宗という宗派の教えを日本に布教しようとしていたわけではない。ただ禅師には釈尊の教えを知りたいという純粋な想いと後世に伝えなければならない、という責務の念があったのではなかろうかと思う。
比べるのは甚だ痴がましいことではあるが、私も僧侶としてインドという地で仏教という知的財産・文化的財産に直に触れたいと願っている。同時に、この財産を現代の人々と共有するとともに、後世に伝えていかなければならないという強い思いがある。それゆえ、今なおインド仏典の参究が盛んなチベット僧院において師から直接仏教を学び、それを現代の日本人と広く共有し継承できればと考えている。
チベット僧院への留学が叶ったら、まず伝統的な学習方法を身につけたいと考えている。チベット僧院の特徴の一つに問答による学習が挙げられる。講義でも質問等は問答形式で行われる。留学後に研究を遂行するに当たって、チベット人僧侶から様々なことを学ぶ機会があると思われる。その際、内容を正確に理解するためにも問答の仕方を身に付けたいと思っている。
また、私は無我思想に関心を持っており、今後の研究課題としている。無我思想は地域、時代を問わず常に仏教思想の中心に据えられてきた。
禅思想では無我に関係する代表的な言葉に「本来無一物」というものがある。この言葉は慧能禅師が残したもので、一切の物には本来的に実体が無く、それゆえ如何なる物にも執着せず、仏道修行に励むべきであるという禅の世界を表している。そして、この言葉は禅の修行者にとっての心得として現代にも受け継がれている。
チベット仏教では無我に関して様々な形で議論されてきた。チベットの仏典では伝統的に、「無我」という時に否定されるべき「我」とは何かといった議論から始まる。そして、「我」と「私」の関係性や「無」の意味等の議論がインド仏典に即して詳細に考察されてきた。こうした議論は禅の世界でもほぼ見られず、チベット仏教特有のものである。
これからチベット仏教の伝統の中に生きる僧侶から直接学ぶことで、無我思想を様々な角度から考察し理解を深めたいと思う。さらに「本来無一物」に表される禅の世界観を改めて考察し、インド発祥の仏教思想の中でどのように位置付けられるかについても考えてみたい。
最後になるが、チベット僧院への留学では仏教の学問的側面だけではなく、僧侶としての生き方についても学んできたい。以前、チベット人僧侶が私に次のようなことを仰った。
「仏典をいくら読んでも行動が伴わなければ、それは理解できていないのと同じだ。仏典を本当の意味で理解すれば、行いも自ずと正しいものになる。だから本当の意味で理解できるよう絶えず勉強を重ねなさい」
この言葉を聞いた時、仏教を学ぶ本来の目的を改めて考え直すことができた。研究に従事するといつの間にか目の前の文字を読むことだけに注意が注がれ、生き方の問題として考えることが疎かになる。しかし、仏典は全て生き方の問題へと繋がっている。チベット僧院では仏教を身に付けた僧侶に囲まれて生活することができる。そうしたこの上ない機会を活かして、本当の意味で仏教を理解できるよう精進したい。