2019.10.09

「或る者」(カチー)とは誰か

GOMANG ACADEMYでは大学院生のためにグンタン・リンポチェの十二縁起に関するゴマン学堂の教科書を読み進めることになり、9月には第一回目の研究会が行われました。その研究会のなかで、ゴペル・リンポチェがそもそも仏教研究者を目指す人たちと僧侶として仏教思想を学ぶことの基本的な違いについて次のようなコメントがありました。

こないだ大学院生の学生が来て、どのテキストのことだったか覚えてないけど、「先生、この或る人っての誰ですか」って聞くんで思わず笑ってしまったよ。

大体我々が読んでいるテキストは、「或る者が云う」とはじまる段落は何百も何千もあるからね。「或る者」ってのが具体的にどの人か特定しなければいけないんだったら、もうそりゃ大変だし、不可能だよ。

我々は「或る者が云う」というところではなく自分たちの自説としてどのような主張をすべきか、ということのために教科書を学んでいるんだよ。それなのに或る者が誰かなんて考えていたら、肝心の学ぶべきことをまずちゃんと分かる訳ないよね。ある人が誰かなんて全部分かる訳ないし、どうでもいいっちゃどうでもいいことなんだよね。

たしかにクンケン・リンポチェ(クンケン・ジャムヤンシェーパ)たちは時々は「或る者」というのが誰か特定して具体的に名前を挙げて説明するものもあるよ。だけど特定する必要がない場合には「或る者は」「或る者は」って書いてある訳だよ。大体ね、その「或る者」っていうのはクンケン・リンポチェが作って書いてるんだよ。これはね、もしも或る者がこんな風に考えたり言うのならば、こうだってことを説明している訳だよ。そういう場合には、こういう風に言わなくちゃいけない、こういう風に答えなきゃいけない、とずっと続いていく訳だよ。だから「或る者」ってのが具体的にどっかにそんなことを言っている人がいなきゃいけないって決まりはないわけだよね。

だから誰かがこんなことを言っているとテキストに書いてあるからといって、その人が本当にそんなことを言っているのかどうかっていうことはそんなに重要じゃないんだよね。そんなことを言う学者もいるってことなんだよ。その学者が具体的に誰かってことを調べて研究することはいいことだし、研究していくことは良いことだとは思うよ。研究としては「或る者」ってのが誰かを研究してみるのもいいとは思う。

だけどね。そもそも「或る者」って書いてあるのはものすごくたくさんあるからね。たとえばロサンって書いてあるとするでしょ。しかしさ、チベット人のなかにはロサンって名前の人はものすごいたくさんいるからね。どのロサンか特定するのはそりゃむちゃくちゃ大変だよ。ここに「ロサン」って書いてあったからといってそのロサンが誰か探そうとしたらもうこりゃ大変なことになるんだよ。まあロサンって名前の人は同時代でも何百人も何千人も必ずいるからね。どのロサンなのかなんてそりゃ見つけるのは大変だよ。

まあそんな風に大変だけど、あるテキストで誰々がこういういうって言ってわざわざ取り上げている場合には、そもそもその人はすごいその話題について学者であったりする訳だな。それなりにその議題について考えている人であるのは間違いない。もし名前が上げてあってもその人の書いたほかのテキストとかその人の考え方とかをちゃんと勉強してはじめて、ああ、なるほどこの人はこういう風に考えているけど、これはこういう風に考えるべきなんだな、ってことが分かるようになるんだ。まあそれくらいちゃんと調べなきゃいけないんだ。研究するってことはそういうことだろ。

たとえばアビヤーカラグプタはこういうって書いてあるのが沢山あり、アビヤーカラグプタの般若経の注釈のなかには内部矛盾が沢山あり、それが色々なところで指摘されているのは確かだけど、アビヤーカラグプタの言っていることが全部が全部間違いで価値がないものだって考えるのは間違っているよ。アビヤーカラグプタはインドの大学者のひとりとして数えることは確かだよ。だけど、ナーガールジュナ父子や弥勒菩薩の『現観荘厳論』の意図したことに反する主張もあったりしてそれに対する批判的な書き方もされているのは確かだよ。だから般若学のテキストではアビヤーカラグプタの学説は少し批判されているだけなんだ。研究者ってのはそうやって詳しく研究すべき人たちだよね。

だけどね、我々のように僧院で学んできた人間はそもそも、教相家(ツェンニーパ)であって研究者(シプジュクパ)じゃないんだよ。

教相家(ツェンニーパ)ってのはね、論理的に思索して考えて、テキストの真意は一体どうなっているのか、ってことを考えていく人たちのことだよ。真理は何かを追求している訳だよ。研究者ってのは思索して考えることもするけど、さらにひとつのことをもっと調べて、それを説いた人のことやその書物のことなどいろんなことを考えていかなきゃいけない人だよね。

たとえば日本には中観派の研究者ってのがいるけど、まず彼らは中観派の書物はどんなのがどれくらいあるのかってところから研究しなきゃいけないんだね。それでその文献が何百もあった場合にはその著者がいったい誰なのかってことを調べなきゃいけないんだ。さらにその著者がどんな両親からどこでいつ生まれたかってことも調べなきゃいけないんだ。そういうことを全部調べて研究していかなきゃいけないんだよね。その人の師匠が誰だったとか、どこで勉強したのかとか、そういう細かい情報を調べていかなきゃいけないんだよ。

私たちのような教相家(ツェンニーパ)ってのはそういうやり方ではないんだよ。テキストを書いた人がどこで生まれたかとかあんまり重要なことではないんだよ。結局その言っていることが、本当に根拠があることなのかどうか、真実と合致しているのかどうか、真実は何かってことを自分たちでしっかり考えなきゃいけないし、そっちの方がより大事なんだよ。正しいことであったらそれはそのまま受け入れて、次のことを学んでいくわけだよ。

研究者は細部を調べていかなきゃいけないけど、教相家ってのは本質や真実を追求することにより重きを置いているんだよね。

リンポチェは研究者を目指す人たちとそもそも僧侶として、宗教家として、教相家としての道が少し異なっているということを面白く話してくれましたが、仏教の研究者になるということと、僧侶として仏法を学ぶということの根本的な違いがあることの根本的な違いについて語ってくださいました。仏法を学ぶということは単に情報としてテキストを学ぶことではなく、真理を追求することであるという極めて重要な考え方が表れていると思われます。

よく日本には哲学者の研究者は多いが哲学者は少ないとも言われているように、近年では仏教の思想家の研究者はいるが、仏教思想家が少なかったり、仏教学の研究者はいるが、仏教研究者自体が少ないのでは、という不安や懸念も近年言われていることです。

僧院で学問を極めるということと大学院などの研究機関で研究するということは少し異なった方向性にあり、どちらも非常に大事なことだなと、参加者たちで後で話しあったところです。


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