毘婆沙師の学説には、定義・分類・語釈・主張内容の四つが有る。
自証を認めず外部対象は真実成立者であるとする小乗の学説論者、これが毘婆沙師の定義である。それを分類するとカシミール毘婆沙師・西方毘婆沙師・中央毘婆沙師の三つが有る。阿闍梨ヴァスミトラ、有法。彼のことを毘婆沙師と表現する論拠はある。『阿毘達磨大毘婆沙論』に準拠した学説を語る、もしくは、三世は実体の特殊であると語るので、毘婆沙師といわれるのである。
主張内容に、基・道・果に関する主張内容が有る。
基の規定
初には二、境・有境に関する主張内容が有る。
この教義では、一切の所知は五位に属しているとしている。すなわち、現象している色基位、その中心たる心基位、それを取り囲む心所基位、不相応行基位体、無為基位であり、これらの五基位は事物であるとする。実用性があるもの、これが事物の定義であり、有・所知・事物は同義である。無為の諸法は常住事物であり、色・識・不相応行は無常事物であるとする。事物であれば実体成立者であるが、必ずしも実体有であるということではない。勝義諦・実体有は同義であり、世俗諦・仮設有を同義であると主張するからである。これを分類すれば二諦、有漏・無漏、それから派生する他の内容の説明とがある。
破壊されたり知で分解された時に、それであるとする知を捨て去り得る法として認知されるもの、これが世俗諦の定義である。定義基体は、たとえば陶瓶や数珠である。陶瓶を槌で破壊する時、陶瓶であると捉える知は捨てられるからであり、数珠の珠を分解した時、数珠であると捉える知は放棄されるからである。破壊されたり知で分解された時に、それであると捉える知を捨て去り得ない法として認知されるもの、これが勝義諦の定義である。定義基体は、無方分極微・無刹那分認識・無為虚空等である。『倶舎論』で、
破壊されたり知でそれ以外のものを排除した時
それであるとする知が働かなくなるようなもの
これは瓶のなかの水のように世俗として有る
それ以外のものは勝義として有るものである
と説かれるからである。以上のことから諸々の世俗諦は勝義不成立だが真実成立であると主張する。この教義は、事物であれば真実成立である、と承諾するからである。
所縁や相応者の何れかで漏が増加し得る法、これが有漏の定義である。定義基体は、たとえば五蘊である。所縁や相応行の何れによっても漏が増加し得ない法、これが無漏の定義である。定義基体はたとえば道諦・無為である。『倶舎論』で、
道以外の有為は有漏である。
無漏はまた道諦と三無為である
と説かれるからである。有漏であれば所断である。資糧道・加行道は所断であるからである。見道は無漏のみであり、修道と無学道との二つにはそれぞれ有漏道・無漏道の二つずつが有る。聖道であれば無漏であるが、聖者相続道であるからといえ必ずしも無漏ではない。修道者の相続上の寂静麁重相を有す道は有漏であるからである。
三世とは実体であるとしている。すなわち、瓶は瓶の過去の時にも有り、瓶は瓶の未来の時にも有るとするからである。否定・肯定の二つを認めるが、絶対否定を承諾していない。否定であれば相対否定であるとするからである。カシミール毘婆沙師は、経量部と同様に、業果が結びつく所依としての識の相続を認めている、それ以外の毘婆沙師は、業果の結びつきの所依として、得というものがあるとし、これは債務と同じく免除されない不相応行であるとする。帰謬派とこの学派の二派の教義では、身業・口業は有色であるとする。有為であれば、無常であるけれども、必ずしも刹那であるということではない。生起作用が終了した後に住する作用は継続し、その後滅する作用がはたらくとしているからである。
有境をどう主張しているか、といえば、人・識・能詮声の三つがある。
仮設基体たる単なる五蘊の集合体、これが人の定義基体である。正量部の或る者は、五蘊の各部が人の定義基体であるとし、守護部は単なる心自体が人の定義基体であると主張している。
知には、量知・非量知の二つが有る。前者には現量量・比量量の二量が有る。前者には根現量・意現量・瑜伽現量の三つがあるけれども、自証現量は承諾しない。根現量量であるからといえ、必ずしも知ではない。有色眼根は、物質・見・量の三つの基体共有者であるからである。根知は形象をもたず裸眼のように計量し、有所依の有色眼根すらも色を見ていると主張する。もし識のみによって見ているのならば、壁などといった障害物がある色すらも見えることになる、としており、心と心所は別異実体であると主張する。後者の非量知には誤認などが有る。
声一般を分類すれば、有執受声・無執受声の二つが有る。前者はたとえば生物の発声である。後者はたとえば水声である。有執受声・無執受声の各々に有情表示声・有情非表示声の二つずつ有る。有情表示声・言表声・能詮声の三つは同義である。有情非表示声・非言表声・非能詮声の三つは同義である。仏語・論書の両者は名句文の集合体と同体である声像という不相応行であると承諾することから、この教義では物質・不相応行は非対立項であるようである。
道の規定
道の規定を説明すると、道所縁の説明、道所断の説明、道自性の説明とで三つがある。
道所縁は、四諦の属性である無常等の十六行相である。微細無我と微細人無我とは同義であるとし、人が独立自存の実体有に関し空であることを微細人無我であるとする。十八部派なかで正量部の五派は、人が独立自存の実体有に関して空であることを微細人無我であるとは主張していない。これらの部派は独立自存な実体有である我は有るとするからである。粗大法無我・微細法無我という設定は認めていない。基体成立ならば、法我であるとするからである。
道所断には、染汚無明・不染汚無明の二つがある。前者は解脱を得るための中心的な障礙である。定義基体は、たとえば、人我執・それに由来する三毒・その種子である。後者は、一切智を得るための障礙である。定義基体は、たとえば如来の甚深微細なる法に対する無知であある、不染汚の障礙などといった無知の四因である。障礙にはこの二つがある以外に所知障という言説を承諾しない。
果の規定
三乗道の各道それぞれに、資糧道・加行道・見道・修道・無学道という道の規定を承諾しているが、十地の慧は主張しない。十六刹那の智・忍のうち、前十五刹那は見道であり、第十六刹那道類智は修道であり、ちょうど山羊たちが列をつくって順々に橋を渡っていくように順次生じてゆくと主張している。道諦であるからといって、識であるわけではない。無漏の五蘊をも道諦であるとするからである。声聞の種姓をもつ者は無常等の十六行相を三度転生する間に修習する。そして最終的に声聞修道の金剛喩定において有染汚障を得ることをやめるという方法によって断尽し阿羅漢果を現証する。如犀独覚は、人が独立自存の実体有に関して空であることを証する見を百大劫等の間、初めに福徳資糧と合わせ資糧道上品にいたるまで修習し、その後、加行道煖位より無学道にいたるまでは一座において現証する。劣阿羅漢はまた自らの断・証から再び堕ちてしまって預流となってしまうことが有るので、退法者というものがいると承諾している。声聞には二十僧伽・八輩の規定を適用するが同位者は認めないのであり、八輩の何れかであれば聖者である、と主張している。菩薩は、資糧道位で三阿僧祇劫のあいだで資糧を究竟させ、次に百大劫のあいだで相好因を成就させる。そして最期有の世で、菩提樹のもとで初夜には天子魔を降伏し、中夜に三昧へ入り、加行道・見道・修道という三道を現証した後に、晨朝において晨光が昇ってくるのと同時に無学道を現証する。しかるに初夜の魔の降伏よりも前は凡夫位であり、菩薩の加行道・見道・同修道の三道は禅定に属するものであるとしているのである。十二事業のうち前半の九仏業は菩薩の事業であり、後半の三行状は仏の事業であるとする。証解法輪であれば見道であり、聖教法輪であれば四諦法輪である、としている。七部阿毘達磨論とは仏が説いた仏語そのものであるとしているのであり、仏語のすべてのものは、文言通りのものである。法蘊には八万の法蘊よりも多い、八万四千の法蘊という規定を認めない。『倶舎論』で
法蘊は八万であり、牟尼によって説かれたこれらは
と説かれるからである。最期有の菩薩が菩提を現証する所依は欲界だけであると決まっているので、色究竟密厳天や受容身の規定といったものを認めず、さらに一切相智も主張しないのである。三乗阿羅漢であれば、必ず有余依である。無余依涅槃する時には灯明が消えるように知の相続は途絶えるとするからである。それ故に、究極的には乗は三乗が成立しているともしている。或者は、釈尊が涅槃なされたときには、特定の所化に示していた色身の示現を収集しただけであって、実質的な涅槃は無い、としているが、これは魚と蕪の混乱である。
仏聖者は苦諦・集諦のすべて断じているけれど、その心相続に苦諦が有るということとは対立しない。苦諦を所縁とする煩悩のすべてを残りなく断じた時、苦諦を断じた、とするからである。色身は、過去世の菩薩加行道位の身依と同一の世に帰するものであるから仏宝ではないけれども、それが仏であることは認めている。仏宝とは、仏心の相続にある滅尽と無生智のことであると主張している。このように有学の聖者は有漏であるので僧宝ではないけれど僧ではあるのである。僧宝とは彼らの心相続にある道諦のことであると主張している。法宝もまた設定がある。仏と声聞独覚の両者の心相続にある涅槃と滅諦というこれがそれであるからである。
間頌
私の思考で探求した金の瓶により
毘婆沙師の本典の海より汲み上げ
善説の新たな甘露を囲み宴とする
聡明な若者が集い歓び興じんこと