「行苦」というのは、業と煩悩によって支配されているものはすべて苦しみであるということである。
通常我々が「苦しい」と思うものが「苦苦」であり、通常我々が「楽しい・幸せである」と思っているのが、「壊苦」であることを考えれば、「行苦」というのは通常我々が苦しいとも楽しいとも思っていない、中立的なものが実は苦しみだという話なのである。
たとえば我々の肉体その一例である。我々の肉体は通常は感受作用の主体であって、特に肉体自体が苦しいとか楽しいといった感情を享受するものではない。
しかし、この肉体は業と煩悩によってもたらされたものであるからこそ、この肉体が滅びようとする時には、強烈な執着心が発生するのであり、その強烈な執着心が原因となって、来世に再び別の肉体を享受しようとするのである。
このように考えると肉体自体は苦しみでも幸せでもないが、通常我々はそれを煩悩によって支配しているので、実はそういうものも苦しみなのであるというのが仏の教えなのである。同じことは金銭などにあてはめて考えても分かるだろう。