ゲンチャンバのパソコンが直って、無事インターネット電話ができるようになった。パソコンが直ったその日の夜は、姪っ子と何時間も話していたらしい。
「話を終わらせようとしないから、最後は『もう寝るぞ』といって、なんとか電話を切ったよ」
と苦笑のゲン。よっぽど伯父さんと電話できたのが嬉しかったのだろう。何時間も電話の受話器をおろそうとしなかったらしい。ゲンチャンバの風邪声を聞いてとても心配していたから、元気な声が聞けてよほど嬉しかったとみえる。
しかし、この姪のおかげで困ったことになったと漏らすゲンチャンバ。何のことかと思えば、
「さっき従兄妹に電話したら、従兄妹まで泣くんだよ。『風邪は大丈夫なの?ちゃんと薬のんだの?ちゃんとご飯は食べてるの?』って。たぶん姪が皆に私が風邪だと伝えたんだろう。みんなに泣かれてまいった、まいった」
チベットでは「いとこ」同士のつながりはとても強い。「きょうだい」を表すチベット語「ピンギャー」は、いとこのことも含む。それ程いとこの絆が強いということなのだろう。日本語でいう「きょうだい」について訊くときは、「父、母が同じのピンギャーは?」と訊いたりする。
ゲンチャンバの従兄妹も、ゲンのことが心配で、電話口で泣いてしまったらしい。
「身体を気遣って涙を流してくれる人がいるなんて、ゲンはとってもしあわせですね」と言うと、
「そうじゃない、私が遠くにいるからだろう。従兄妹に言ったんだ。『お前は、私についてはそんなに心配するが、家族のものとは喧嘩してばかりだろう?遠くにいる私の心配ばかりせずに、近くにいる家族をもっと気遣いなさい』って」
確かに、近くにいすぎると日々の生活で、相手に対する気遣いよりも先に小言が出てしまう。そう言えば、ゲンチャンバと同じような境遇の他の先生も、
「老いた母は遠くにありて想うもの。遠く離れているからこそ、いつも強い愛情と慈しみを感じる」
と話しておられた。
近くにあって、ともに生活をすること。それは実は、遠く離れて生活することよりも難しいことなのかもしれない。
チベットでは、「ただの石でも他人が持てば宝石」という言葉がある。
ないものねだりの心。その心を、知足の心へと運べるように。本当の宝石を見失わないように。