前回輪廻には「はじまり」がないからこそ、すべての衆生が自分の母親であったと考えることができるし、縁起が成立するとありましたが、一方では、仏教ではすべての衆生(生きとし生けるもの)が、仏になることができると説いていますので、すべての衆生が成仏してしまえば、この輪廻の世界は終わりではないか、という疑問が自然と起こるでしょう。
この問題についてチベット仏教ではどのように回答しているのか、といえば、「すべての衆生が成仏することが可能である」「すべての衆生は必ず成仏する時はある」としています。しかしながら、「すべての衆生が成仏して、衆生が居なくなるということはない」と謂います。その理由は、この世のなかの衆生は無数に居るからなのです。つまりすべての人が仏になることはできるとしても、一度に全員が成仏するわけでもないし、衆生は無数無辺に存在しているので、「輪廻の世界には終わりはあるけれども、輪廻の世界が終ることはない」ということになるのです。このように考えてゆけば仏教における「無始無終」というのと道教における無始無終とは少し性質が異なることが分かるでしょう。