釈尊は、所化の意思に答えるための「八万四千の法蘊」を説かれたといわれているが、そのたったひとつの「法蘊」がどのくらいの分量なのか、といえば、文字にして経典として編んだ時、その巨大なる象に乗せても運べないくらいの量だ、と伝統的にいわれていると先日もゴペル・リンポチェは法話会で紹介なさっている。釈尊の教えはその84000倍もあり、途方に暮れる分量なのである。
これに対して、私たちのような仏教に関わる仕事をしていると、次のようなクレームを受けることがある。
仏教は世界の三大宗教であり、キリスト教ならば『聖書』があり、イスラム教ならば『コーラン』がある。しかしながら仏教にはいろいろな経典があって、分かりにくいのにも程がありますよ。大体なぜ一冊にまとまってないんですか。他の宗教のようにこれを読めばいいという経典はどうしてないんですか。それはこれまで仏教に関わってきた人は怠慢で修行ばっかりしてたからなんじゃないですかね。何故、これっていう一冊にそれをまとめないんですか。どんな企業だって努力してますよ。そんなことも出来ないから、仏教はいつまで経ってもよく分からないし、そんなんで人を救うことなんて出来ないんじゃないでしょうか。人を救うなんて簡単なことじゃないんですよ。お祈りばっかりしてないで、もっと頑張りなさいよ。大体仏教用語だって難しい漢字ばっかり使っていて何のことやら分からないものだらけじゃないですか。もっとキャッチーなコピーを使って説明したらいんですよ。
こうした意見はある意味では正しい。彼らの意見は真摯であり、切実である。彼らは仏教がもっと人々に知られ、その教えが人々に役立つものとなることを望んでいることは確かである。また顧客第一主義は、現代の企業のマーケティング理論で極めて重視されるものであり、私たち仏教に関わる者も施主となってくださる方々がいてはじめて、こうした活動がこの世界で可能となるからこそ、こうした意見を無視することはできない。しかしながら確かに三蔵法師玄奘の時代に比べると、私たちのマンパワーでできる仕事量ははるかに少ないとしか言いようがない。
しかしながらこうした意見を反映するために世の中を変えることは非常に困難である。これから仏教を研究しようとする人はまずはサンスクリット語やチベット語や漢文を学ばなくてはならない。それらを学び正しく読めるようになるだけでも相当の時間がかかり、語学が得意ではない日本人にとっては、とてもハードルが高い。チベット語仏教文献の場合には、現在もテキストが僧院で毎日学ばれているため、日本人がそこに書かれていることを理解しようとしても、書物の上だけではほぼ全く分からない。だからこそチベット人の学僧たちと共同で研究しようとしても、そのような研究をする機会は非常に少ないし、いわゆる「実学」ではないので、産官学などの連携体制をつくることなどできない。またそもそも取り扱うテキストは難解であり、しかも古典である。たとえばダライ・ラマ法王も「ツォンカパの『菩提道次第論』を9回紐解けば、9回異なった理解が生まれる」といった類の古典であるという問題もある。古典の解釈は無限であり、その研究もまた無限である。
仏教で説かれている教えにはさまざまなものがある。しかしそのすべてをたったひとつの本で理解しようとしたり、短時間で理解しようとすること自体が、人間としての奢りであるともいえるだろう。たとえば、たったひとりの偉大なる作曲家が偉大なる交響曲を作曲したからといって、すべての音楽愛好家の嗜好をみたすことができるのだろうか。人間の嗜好には限りがなく、欲望にも限りがない。しかるに、ひとつの楽曲で終わりというようなものではないことも確かである。
これらのことを考えていくと私たちは次のようなことを思いつくだろう。
- 仏教の世界における情報量はビッグデータと呼ばれるものに匹敵する。
- それは多言語によって記述されたマルチリンガルなデータベースである
- 仏教に関する情報はそれに関わる人がリアルタイムにアップデートしつつある
- こうした状況のなかで仏教とは何かを知ろうとすれば、それなりの方法が必要と思われる
釈尊が説いた、84,000頭の巨大な象に乗せても運べない教えに対峙する私たちは、それをどのように学習するのか。人工知能を開発して機械学習でカーナビのようにサジェスト機能を有するソフトウェアを開発すれば、仏教はわかるようになるのだろうか。
残念ながらそうではない。仏教とは非常に個人的なものであり、それを理解するためにいくらコンピュータやテクノロジーを駆使したといえ理解することはできない。このことをジェ・ツォンカパは『菩提道次第広論』で次のように説いている。
また仏法を説いたり聴聞する時に、自分の心相続とは別のものとし、法を別のもとして説くならば、どんなに説明しようとも重要なものとはならないので、自らの心相続で確定するために聴聞しなくてはならない。たとえば顔に煤などの汚れの有無を調べるのなら、鏡を見ながらその場所を理解し汚れを拭き取るだろう。これと同様に、行いに間違いがある我々も法を聴聞する時に、法という鏡に映し出され、その時に自分の心相続がこのような状態になってしまっている、と後悔し、それ以降は、欠点を取り除き、長所を伸ばそうとすることで、法に準じた活動を身に付ける必要があるのである。
残念ながら、私たち人間は完全無欠なものではない。仏教とはそれと同様に、完全無欠ではない我々の問題点を映してくれる鏡のようなものである。心をうつ同じ楽曲に耳を何度も傾けることそれ自体が、ひとつの音楽行為であるのと同様、この膨大な量をもつ仏教に対して私たちは向き合うことから、仏教と私たちとの対話ははじまるのではないだろうか。