今回は『倶舎論』第2偈について解説しよう。前回の第1偈「帰敬」と「著述の宣言」を述べたあと、第2偈では「阿毘達磨」と「倶舎」について述べられている。
『倶舎論』とはサンスクリット語で言えば「Abhidharma-kośa-śāstra」(阿毘達磨倶舎論)であり、先の著述の宣言でも述べられていました。チベット語では通常『阿毘達磨倶舎論』とは「Abhidharma-kośa-kārikā」(アビダルマコーシャカーリカー)「阿毘達磨倶舎頌」のことであって『偈頌』のみを指している。この「倶舎頌」に対するヴァスバンドゥ(世親)の註(バーシュヤ)を『自註』と呼んでいる(1)日本では通常ヴァスバンドゥの自註を含めたもののことを『倶舎論』と呼んでいる。。
『阿毘達磨倶舎論』それぞれのサンスクリット原語「abhidharma」(アビダルマ/阿毘達磨)、「kośa」(コーシャ/倶舎)であり、「śāstra」(シャーストラ/論)の合成語となっている。
阿毘達磨とは無垢の慧とそれに準ずるもの〔であり、〕
それ(無垢の慧)を得させる(慧)や論書もそうである。
この〔阿毘達磨倶舎論〕には、それ(阿毘達磨七論)が内容として
正しく収められているから、或いは
この〔阿毘達磨倶舎論の〕母体がそれ(阿毘達磨七論)であるから
阿毘達磨蔵(倶舎)論である。(I-2)『倶舎論頌』第2偈
『阿毘達磨倶舎論』とは何かというこの署名を述べているこの第2偈は大きく二つの部分に分けることができる。一つは「阿毘達磨とは無垢の慧とそれに準ずるもの〔であり、〕それ(無垢の慧)を得させる(慧)や論書もそうである。」の詩句、もう一つは「この〔阿毘達磨倶舎論〕には、それ(阿毘達磨七論)が内容として正しく収められているから、或いはこの〔阿毘達磨倶舎論の〕母体がそれ(阿毘達磨七論)であるから阿毘達磨蔵(=倶舎)論である」の詩句です。
前半2つの詩句は〈阿毘達磨〉(abhidharma)について、後半の2つの詩句は〈倶舎〉(kośa)の説明である。さらに、前半の二つの詩句は「無垢の慧及びそれに準ずるもの」を説明する詩句と「無垢の慧を得させる手段としての無垢でないつまり有漏の慧と、有漏の慧を生じさせる論書の説明」の詩句に分けられる。同様に後半の二つの詩句も「阿毘達磨七論の内容を収めている」という点から〈倶舎〉と言う場合と、「阿毘達磨七論が倶舎論の母体となっている」という点から〈倶舎〉と言う二つの場合があることに分けられる。
〈無垢の慧及びそれに準ずるもの〉とは「勝義の阿毘達磨」と言われ、〈無垢の慧を得させる(慧)や論書〉については「仮設の阿毘達磨」と言われる。つまり、正真正銘の阿毘達磨とは「勝義の阿毘達磨」であるところの〈無垢の慧及びそれに準ずるもの〉のことである。
ところで、何故「阿毘達磨」(abhidharma)と言われるのかというと、自身の特質を保持しているから〈dharma〉であり、勝義の法である涅槃を現前させ、また実現するので〈abhi〉であると『倶舎論』では解説される。
「勝義の阿毘達磨」とは何か
「無垢の慧とそれに準ずるもの」である勝義の阿毘達磨とは無漏の見道・修道・無学道のことです。この三道は、資糧道、加行道、見道、修道、無学道という仏教の修行階梯を示す五道として説明される修行道のうちの後半の三道を指しています。何故、見道以降が「勝義の阿毘達磨」なのかと言うと、修行道の中において初めて聖者の智を得る段階が見道からであるからです。すなわち無垢の慧つまり無漏の慧とは聖者の智に他ならないのです。これが勝義の阿毘達磨と言わています。またそのような「無漏の慧」に準ずるものとは聖者が身に付けている戒である無漏の律義のことです。
ジャムヤンシェーパは「勝義の阿毘達磨」を自説において次のように定義しています。
無漏の慧が主要なものとしてある無漏の蘊、それが勝義の阿毘達磨の定義〔である〕。本質の観点から分類すれば、無漏の五蘊(=無漏の色・受・想・行・識)、断ずべきものを断じる観点から〔分類するならば、〕無間道と解脱道との二つ、及び見〔道〕・修〔道〕・無学道との三つがある。三道についても付随するものがある場合には無漏の五蘊を有するものとして設定され、〔付随するものを〕持たない場合には慧〔のみ〕が設定される。
「仮設の阿毘達磨」とは何か
仮設の阿毘達磨とは勝義の阿毘達磨、つまり無垢(=無漏)の慧を得るために習得すべき有漏の聞・思・修の三慧と先天的な慧、及びそれら無漏・有漏の慧を論述内容とする『発智論』などが仮設の阿毘達磨です。
この仮設の阿毘達磨は勝義の阿毘達磨を得させる手段、或いは原因であるために「阿毘達磨」という名前が付けられます。
この仮設の阿毘達磨により勝義の阿毘達磨が得られる次第は、先天的な慧に依拠して聞慧が生じ、聞慧から思慧が生じ、思慧から修慧が生じたのち、無漏の慧が生じる順番になります。
ジャムヤンシェーパは仮設の阿毘達磨を次のように定義し、分類しています。
仮設の阿毘達磨について、定義はある。何故ならば、勝義の阿毘達磨を得させる道、および勝義の阿毘達磨の様々なテーマを説くテキストが適宜収められている阿毘達磨が仮設の阿毘達磨であるからである。
そしてこの二つの仮設の阿毘達磨(1. 勝義の阿毘達磨を得させる〈道としての阿毘達磨〉と2. 勝義の阿毘達磨の様々なテーマを説く〈テキストとしての阿毘達磨〉)の定義は、次の通りです。
1〈道としての阿毘達磨〉について、定義はある。何故ならば、勝義の阿毘達磨を得させる聞〔慧〕・思〔慧〕・修〔慧〕の三〔慧〕のいずれかによって含められる有漏の阿毘達磨が〈道としての阿毘達磨〉であるからである。
2〈テキストとしての阿毘達磨〉について、定義はある。何故ならば、勝義の勝処とか、繰り返される内容の様々なテーマ〔を説く〕有漏の阿毘達磨が〈テキストとしての阿毘達磨〉であるからである。
ここで勝義の八勝処とは自分の内面に色・形のイメージを持ちつつ外界の色・形を制御して認識する止観の四つ、および自分の内面に色・形のイメージを持たず外界の色・形を制御して認識する止観の四つとの計八つの対象を制御して認識する方法で、この場合は「勝義」とあるので「無漏の止観」のことです。
「倶舎(kośa, 蔵)」が意味しているもの
阿毘達磨七論とは、毘婆沙師による次の七つの論書を言います。
- 迦多衍尼子(カーティヤーヤニープトラ)作『発智論』
- 世友(ヴァスミトラ)作『品類論』
- 提婆設摩(デーヴァシャルマン)作『識身論』
- 舎利弗(シャーリプトラ)作『法蘊論』
- 目連(マウドガリヤーヤナ)作『施設論』
- 摩訶拘綺羅(マハーコーッティカ)作『集異門論』
- 満慈子(プールナ)作『界身論』
この説は称友(ヤショーミトラ)のもので、満増(プールナヴァルダナ)は『集異門論』を作ったのは舎利弗だと説明しています。
第2偈の後半の二連の詩句では、『倶舎論』はこの七つの論の内容を収めている蔵であるから、またこの七つの論が倶舎論の母体または出処である故に、蔵(=倶舎)論であると言われると述べています。
これら七論は漢訳圏では「六足発智」と呼ばれ(『発智論』を身体、六つの論書を足に喩えて、このように言われる。)、『発智論』の注釈書である『大毘婆沙論』とともに説一切有部の根本典籍となっているものです。
これらは説一切有部では仏陀世尊が説かれたものだと解釈するのですが、経量部はこれらの論書は世尊が説かれたものではなく、阿羅漢が作ったものなので仏説ではないと批判しますが、これは次の第3偈で述べられますので、次回は阿毘達磨の仏説・非仏説について説明したいと思います。
注
↑1 | 日本では通常ヴァスバンドゥの自註を含めたもののことを『倶舎論』と呼んでいる。 |
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