台風が逆行したり、大規模な土砂災害に見舞われ、体温よりも暑かった広島の夏の日々も終わり、もうすぐ御彼岸となる。ゴペル・リンポチェは腰痛で少し体調が悪いので今月は東京での行事もキャンセルとさせていただき、今月は静かな秋の気配が日本別院の山にも訪れてきた。
日本には「インド学仏教学」という学問があり、チベット仏教を原典で学ぶひとたちもそこに集うことも多い。9月の初頭には、学術大会があり、チベット関係の研究発表も行われ、時々さまざまな研究上の質問に参拝される人たちによる学会発表もあった。そんな話をふとアボとすることとなった。
「チベット語を学んで、仏教用語を学んで、仏教の研究することは、大変立派なことで素晴らしいと思います。しかし、それが学位を取ることや、仕事を得ることや、自分の身勝手な主張をするためのものであったのなら、それは仏教を学んでないということですよね。」
最近学会で発表される話題が、非常に細かい議論に集中したり、新しく公表された新資料などの研究があることなどをアボと話してるとアボがそんなことを語ってくれる。
「仏教で身につけるものってのは、戒・定・慧の三学ですし、そもそも解脱と一切智を実現するために仏教を学ばなければいけないんです。そう考えると本山で何十年も勉強しているゲシェーたちは、本当に驚くべきなんです。私は日本にいるので、そんな勉強はできなかったのですが、ここに来るゲシェーたちはやっぱりすごいなって思いますよ。
もちろん最近は伝統的な僧院の教育について批判的な考えを持っている人もいるのは知ってます。でもやはりバランスよく仏教を学んでいますし、そのなかにはそれをきちんと実践しようとしている人たちもたくさんいるんです。
仏教を学ぶってことは、いろいろな情報を知るということだけではないんです。仏教を学ぶということは<心が法として働くこと>、つまりよい心にならないといけないということです。どんな難しい情報を知ることができても、それが自分の心の糧になっていないのならば、何にも学んでないことなんです。」
私は「そうですね。確かに知識を得て実践できないのならば、全然意味がないし、何の役にも立たないことを学んでも仕方ないですよね」と言ってみたが、アボは語る。
「それは意味がないとか、役に立たないとかいう話じゃないんですよ。学べてないってことなんです。役に立つかどうこうではなく、学ぶことを知らないってことなんです。ちょっといろいろ本を読んだり、知識を得ても学べてないってことなんです」
なかなか厳しいご意見であるが、いつもきちんとしているアボの言葉には大変重みがある。これがチベット仏教の僧院の伝統の重みであると感じる日であった。