「リタンのお坊さんはちゃんとしたお坊さんですね」
京都在住のチベット人の先生とお話しすると、いつもこのことが話題になります。このリタンのお坊さんとは、アボさんのことです。先生は朝の散歩中、たまたま道でアボさんをみかけたそうです。その日は安楽寺での法話会のため、お坊さまたちは前日から京都に泊まっておられました。アボさんは早朝、数珠を片手に真言を唱えて散歩しておられたのでしょう。その姿を見られて、「ちゃんとしたお坊さん」という印象が、先生に強く残ったようです。
一般に、チベットのお寺の中でも、セラ寺、デプン寺、ガンデン寺に属する僧侶の姿は、群を抜いて美しいと言われます。
昔、聖者阿説示という、立ち居振る舞いの素晴らしい方がおられたそうですが、その人の行道だけで真実が見えるとさえ言われるそうです。私たちは他人の心の中は見ることができませんが、外見は目にすることができます。お坊さんたちは、その姿からだけでも、見る者に信心を起こさせることができます。しかし、その反対もまた可能です。
「僧侶というのはお供えで生活しているんですよ。法を行わずに悪行を行えば、悪業を積んだ上に、施主の気持ちを無碍にすることになります」
とチベットの先生とのお茶の席で、そんな話になりました。そこで、「業には善業、悪業、そのどちらでもない業があると聞きました。ですが、あるお坊さんが『どちらでもない業はない』とおっしゃいました。なぜなら無明と関係のない業はないからだと。これはどうなんでしょう」と質問してみると、
「そうですね、私達の業は全て無明と関係していますね」
無明でありながら善業が積めるものなのかと、疑問に思って聞いてみると、
「それは積めますよ。善業を積むのは、善趣に生まれ変わるためです。三界の最後の段階になるまで、無明がありますよ」
でも、私たちは解脱を求め、仏になるために仏教を実践するために善業を積むのではないのかなと思って、更に聞いてみると先生は笑われて、
「『四百論』にも説かれている通り、まずは罪を清め、功徳を積んで、それから瞑想して空性を理解するんですよ。物事には順序があります。また、チベット人は習気を重要と考えます。今生で仏教を学ぶことによって、来世でその習気が覚めます。今生で成仏できると思って修行している人はいないでしょう。それよりも善業を積んで、来世でも人に生まれ変わり、また仏教を実践できるようにチベットの人たちはがんばっているのです」
との答えが返ってきて、反省しました。どうも自分は仏教というものをお手軽に考えすぎていたようです。チベットの人たちは、もっと遠い未来を見据えているんですね。