2018.09.20

小慈、大慈を妨ぐ

渡邉温子

「息子と、もう2日も口も聞いてないのよ・・・」

知り合いとの他愛もない会話の中で、息子に対する不満がもれてきた。話を聞いてみると、高校1年生になった息子が部活を熱心にやりすぎて、学校の成績が落ちてしまったらしい。いくら勉強するように言っても聞かないので、強行策に出て朝も起こさないと決めたため、ここ2日息子さんは学校に遅刻して行ったらしい。

「可愛そうだとは思うけれど、今が将来のためにどんなに大事な時期かわかってもらうためにはしかたないわ」

どの大学に行くかによって今後の人生が決まる。遊びたいなら大学に入ってから好きなだけ遊べばいい、というのが母親である彼女の気持ちらしい。彼女の話を聞いて、お坊さんにきいた仏や菩薩たちの気持ちに思いを馳せた。

「仏や菩薩たちからすれば、世俗の喜びばかりに耽っている我々が、かわいそうに見えてしかたないんです。彼らには、我々が本当は幸せと思っているものが、苦しみでないことがよくわかっているんです」

仏や菩薩たちからすれば、せっかく人に生まれたこの機会を生かして解脱を求めなければ、永遠に輪廻の中で苦しみ続けることがわかります。しかし、親の心を理解できない子どもと同じように、我々衆生は目先の楽しみにかまけて、なかなか法を実践しようとしません。以前、リンポチェが『菩薩道次第略抄』の説法を始めた日に、

「みなさん、これから毎日『菩薩道次第略抄』を唱えるといいですよ。短い言葉で、深い教えが説かれています。また、それを聞いた人たちにも利益があります」

とおっしゃっていましたが、何人の人が読経されているでしょう。かく言う私も、リンポチェの教えを守れていません。以前、ゲンギャウ先生に、何にお経を毎日唱えたらいいでしょうかと質問したとき、

「短いものでいいので、毎日続けてください。長いものを選んですぐにやめてしまうのはよくないです」

と答えられました。お坊様方も、毎日自分の読むべきお経を欠かさず唱えておられます。そもそも量が多いので、いくら早く読まれるといっても時間がかかります。どうしてお坊様たちは、あんなに多くのお経を毎日唱え続けておられるのに、私たちには短いお経でさえ毎日唱えることがままならないのでしょう。それはやはり、喜びがあるかどうかの違いなのだろうと思います。以前、六波羅蜜について説かれたとき、リンポチェも、

「精進とは喜ぶ心ですよ」

と説かれました。誰でも好きなこと、嬉しいことは喜んでやります。たとえ、そこに苦労がともなったとしても、喜びの前では苦労も苦労ではなくなります。例えば、ゲームの好きな子どもは同じ姿勢で何分、何時間も座り続けることができます。普通ならば同じ姿勢を続けることは苦痛なはずですが、ゲームが楽しい、面白いと感じてそこに喜びがあるので、そのような苦行も苦行でなくなります。日々読経することによって、悪趣から遠ざかり解脱に近づくということが理解できず、喜べないから私達は毎日続けることができないのでしょう。

本当のありようを理解していない私達は、いつも間違って幸せではないものを幸せだと思いこんでいます。将来を自分で見通すことができない子どもは、親の助言を聞いたほうが賢明です。それと同様に、無明にいる私達は仏や菩薩、その教えを実践しておられる僧侶の方たちの言葉に素直に従うのが幸せへの一番の近道ですね。

チベットの僧院は、それこそまさにスパルタ教育です。最近では以前に比べれば寺での折檻も減ったそうですが、それでも厳しい師弟関係は守られています。以前、ザンスカールに行ったときにもともと僧侶で、ゲンギャウさんのお弟子さんだったという人を見かけました。そのとき、ゲンギャウ先生の弟子であるイシが、

「彼は僧侶だったとき、先生の話をまったく聞かなかったんですよ。先生に怒られていたけど、あんなひどい怒られ方、見たことないよ」

と、少し青ざめた顔で教えてくれました。そういうイシも小さい頃はよくゲンギャウ先生のお怒りを買っていたようですが、それよりも比べ物にならない怒りようだったのでしょう。ゲンギャウ先生は弟子の教育に関して、容赦がありません。しかしそのおかげで、多くの優秀な弟子が育ちました。可愛い子には旅をさせろ、ではないですが、目先の苦しみよりももっと大きな輪廻の苦しみから助けることこそが必要です。

大局を見通さる目をもちたいものです。

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