一般にインド・チベットの論書には帰敬偈という仏世尊や菩薩、ならびにラマに対する敬礼を表す詩句が冒頭に置かれる。
『倶舎論』もその例に漏れず、次のような帰敬偈が記されている。
すべてにわたり暗闇を完全に打ち破り、
輪廻の泥から有情を救出なさる方〔は〕
真実のとおりにお説きになるが、その方に敬礼〔して〕
これが倶舎論頌の第1偈であり、四連の詩句からなるうちの三連が帰敬偈に当てられる。最後の一連は
阿毘達磨倶舎論を解説しよう
と記され、古来より「発起序」名付けられる〈著述の宣言〉を表明する詩句となっている。
この帰敬は、まず自分の師つまり仏陀の偉大さ読者に知らせるために、師がどのような点で偉大なのかという特質を述べ、そしてその後でその偉大なる方に敬礼する、という順序で記されているが、この師の偉大さを知らせる意味とは、師たる仏陀の偉大さを知ることにより、そのような偉大な方の教えであれば、敬意をもって教えを聴こうとし、その教えを聴き、考え、実際に教えを自分で体験する(これらを聞慧・思慧・修慧の三慧という)ことをとおして解脱を得ることが可能になることである。
そしてまた、そのような偉大な方に『倶舎論』の著者である世親が帰敬を述べていることから、師の考えを註釈している『倶舎論』に対しても、尊い内容が述べられているということも知られる。
この帰敬は『倶舎論』の著者世親(ヴァスヴァンドゥ)が仏世尊に捧げたものであるが、この三連の句はそれぞれ、第一句は自利の円満、第二句は利他の円満、第三句は御業の円満について称讃している。
クンケン・ジャムヤンシェーパによるとこれら三種の称讃は次のように解説されている。
知られるべき対象すべてについて、染汚と不染汚の障害の暗闇を〔暗闇の〕種子もろとも完全に、つまり全く、あるいは全てにわたって打ち破ったという自利の円満と、そのように二種の暗闇を断じたことにより知られるべき対象一切を悟り、抜け出しがたい輪廻の泥の中に沈み、あるいは陥っている有情を分に応じて善趣(人間界、阿修羅界、天界)と至善(解脱)へ順に法を説いて救済する利他の円満と、そのように救出する方便についても、自分が悟らなくてもヴィシュヌのように様々な身を化現する力や自在天のように「あなたはそのようになれ」というような天恵の力によってではなく、実相を誤りなく真実の通りに説き示す御業の円満の方便に基づいてである。
染汚と不染汚の障害が「暗闇」に喩えられるのは、世間で言う暗闇がものの姿形を見るのを覆っているように、この二つの障害(無知)もまた実相が見えることを覆っているから、そのように言うのである。そして仏世尊はこれら二つの障害を種子つまり潜在的な状態のものも含めてすべて断じているのである。それゆえ知られるべき対象一切を悟ることになる。このような仏世尊は我々有情を分に応じて救済されると言う。そうであれば、何故未だ我々は救われていないのか、という疑問がどうしても浮かんでしまう。
このような疑問は昔の注釈者たちにとっても解決しなければならない問題としてあったようで、『倶舎論』の註釈者の満増(プールナヴァルダナ)は次のように説明する。
「〔仏世尊が〕諸々の有情を分に応じて救出するならば、我々が未だに輪廻に住しているのは何故か」と問うならば、〔答えよう。〕分を有する者たちを救出するということなのであって、分を有さない者たちを救出するのではないからである。何故ならば、経の中で「太陽が昇った時、機の熟した蓮華の蕾が開くように、そのように如来が出生しても意思の熟している者のみを浄めるのである」と説かれているからである。
そして救済の仕方もある種の神通力並びに超自然的な力を及ぼすような仕方で行われるのではなく、真実をありのままに説くことによって有情を救済するのである。
それ故、師たる仏陀の教えを註釈しているこの『倶舎論』に出会うこと、それを学習する機会を持てること、そして何よりも正しく理解することが仏陀の救済の分に預かることになるのである。
そのような意義を担って最後の発起序が述べられるが、その実際の目的とは三種の円満を具えている師たる仏世尊に敬礼した後で「著述しよう」と宣言することにより、当面の目的としては『倶舎論』を完成させるため、そして究極的な目的は涅槃を得ようとするためであると説明されている。