「少し暑いくらいの方がいいですよ」
7月に行われた近畿法話会の帰り道。リンポチェが、笑いながらおっしゃいました。全国的な猛暑の中、京都も例にもれず暑い日々が続いています。その日も30度を超える猛暑日で、法を説く側も聞く側も、暑さに耐えながらの法話会でした。そんな中、リンポチェに「今日は暑かったですね」と話かけると、先程の言葉が返ってきました。
「法を行うためには、苦労したほうがいいですよ。業も清まりますしね」
法を行じるためには苦行が必要だということは、先生方と話していても、また先人の伝記などを読んでいても、よくわかります。釈尊は苦行を否定されましたが、仏法を行うためには、ある程度苦しみや苦労が必要であるのでしょう。
「法のために苦行をおこなわねば、法を稀有であり大事なものだとは思えないので、実践はできなくなってしまうのである。」
というのは、マルパ翻訳師の師匠である、インドの行者ナーローパの言葉ですが本当にそのとおりだと思います。
法が得難く、またこれに依るしかないと本当に心で思わなければ、生活に中で移り変わる苦楽に翻弄されて、実践しようとはなかなか思えません。そして、罪を清めるということは、自分自身で行うしかありません。
ある方から、「死刑になれば、その人が犯した罪は清まるのでしょうか?」とリンポチェに質問がありました。リンポチェは、
「たとえ死刑になったのしても、その人が殺人を犯した罪が清まるわけではなりません。釈尊が『衆生の苦しみを手で取り除くことはできない』とおっしゃた通りです。衆生の苦しみは、衆生自身が取り除く他ありません」
自分がなにか罪を犯したとき、自分自身でその罪を清めるほかありません。前回の法話会の中でリンポチェは、
「朝起きたとき、昨晩から今まで何か罪を犯していないか振り返ってみてください。もし何か悪いことをしていたなら、懴悔しましょう。また夜にはその日一日を振り返って、何か罪を侵さなかったか確認してください。もし何か悪いことをしていたなら、懴悔してください。そうすることによって、罪を清めていくことができます」
と話しておられました。もちろん悪いことをしないのが一番良いですが、何かをしてしまったならそのままにしておかず、ちゃんと綺麗にしなければなりません。とても地道な作業ですが、毎日繰り返すことで、確実に心が変化していきます。「もし、手の灌頂を受けて罪が清まるなら、いくらでも灌頂を受けるのですが」と冗談まじりにリンポチェに言うと、
「手で灌頂を受ければ加持はあるでしょう。でも罪は清まりませんよ」
と笑われました。
来月の近畿法話会は暑いさなかの8月25日です。先生たちをお手本にしながら、私達も日々心を清めていきましょう。