2018.07.15

初転法輪とは何かを考える

野村正次郎
デプン・ゴマン学堂の集会殿には法輪が荘厳されている

チベット暦の6月4日は、釈尊がヴァーラーナシーの鹿野苑の地で初めて法輪を転じた日である。釈尊はブッダガヤで4月15日に成道なされた四十九日後、五人の従者に対して法輪を転じられはじめた。この日をチベット語では「チューコル・ドゥーチェン」と呼び、釈尊の四大節のひとつとする。

釈尊が初転法輪で主に説いた教えは、苦・集・滅・道の四聖諦であり、それに因んでヴァーラーナシーのこの転法輪をこれを「四諦法輪」と呼んでいる。その後、王舎城(ラージャグリハ)の霊鷲山にて般若経をはじめとする「無相法輪」を説き、ヴァイシャーリーなどで『解深密経』や如来蔵などを説かれ、それらを合わせて「三転法輪」と呼ぶ。

それでは一体「法輪」というのは何なのか、これについてデプン・ゴマン学堂の学堂の教科書を著した、クンケン・ジャムヤンシェーパは「法輪」とは何かということについて『現観荘厳論考究』定義をみてみよう。

まずクンケン・ジャムヤンシェーパは、

  • すべての教えは三転法輪のどこかに帰属する。
  • 転法輪の3とは定数である。

と述べ、「『解深密経』における三転法輪」と「三転法輪」とは必ずしも同義では無いということについて詳しい分析を行う。

一般的には、「成道後、四十九日間説法をしなかった」と言われるが、そもそも成道したブッダが説法をしないことはあり得ないのであって、最勝の化身たる釈尊は、神々が打ち鳴らす鼓のように途切れることなく説法をしていたが、所化の劫に応じて説法の声が聴取されたかの違いがある、と述べている。

さらには釈尊の伝記とされる降誕・出家・苦行・退魔・成道・涅槃などの十二行相も、実在論者には時間的な前後関係があるように見えるが、実はすべて同時に一時になされたものである、述べている。

こうした議論に続き、クンケン・ジャムヤンシェーパは「法輪」とは何かということについて次のように定義している。

聖教・証解の二つの正法のいずれかに属す功徳、これが法輪の定義である。一切相智を果とする方便たる、聖教・証解の正法は、それによって所化の心相続が転移させることによって、異品(非法)を除去するものであり、それはちょうど転輪聖王の輪が持っている性質に対応するものであるので「法輪」と説かれるからである。これには聖教と証解との二つがある。聖教たる正法、これが聖教法輪の定義である。十二部教が定義基体である。証解たる正法、これが証解法輪の定義である。五道・滅諦が定義基体である。

ここではブッダの言葉と思想によって、弟子たちが心に抱いている誤った考えであったり思いが浄化されていく様子は、転輪王が輪(チャクラ)という武器によって世界を支配していくのにも類似するので、これを「法の輪」と呼び、それは聖教法・証解法に帰属し、具体的には十二部教や五道・滅諦のことを指すものである、としている。

釈尊の説かれた四聖諦については、昨年ゴペル・リンポチェが解説してくださった通り、クンケン・ジャムヤンシェーパは別のところで

四聖諦が「聖諦」と述べられるのには理由がある。聖者が観る通りに存在しており、通常の童子たちが見る通りには真実ではなく、それゆえにそのように説かれるからである。『声聞地』では「聖者たちはこれらの真実をその通りに見ているのであり」とある。

四聖諦が「聖諦」と呼ばれるのは、真実を現観している聖者にとっては事実であるが、凡夫にとっては事実ではないから、そのようなものを「聖諦」と呼ぶと語義解釈される。そして「苦諦」については次のように定義している。

それ自身の因たる集諦から生じている、という観点で特定される有漏の事物、これが苦諦の定義である。分類すれば、異熟果たる内部の有情の取蘊と、後の増上果である不浄なる器との二つがある。その本体の観点で苦苦・壊苦・行苦の三苦がある。

ここで「不浄なる器」というのはいわゆる器世間のことであり、海や山や川や谷も器世間であるので、たとえば「地球は苦聖諦である」ということができるのである。つまり「地球は。聖者にとっては苦であることが事実/真実である」という意味になるのである。また有情の取蘊というのは、いわゆる「私たちの体や精神そのものが苦である」ということになるのである。

地球や山や川が苦しみである、というのは一体どういうことなのかといえば、それらは煩悩と業によってできたものであるので、通常は私たちはそれを苦しみ(苦苦)であるとも思わないし、楽(壊苦)であるとも思わない、「行苦」と呼ばれるものであるが、それはすべて聖者からみれば苦しみにすぎないということを意味している。今日もリンポチェにも伺ったが「ティッシュペーパーであろうと、地水火風といった物質を構成する元素であろうともそれらは煩悩と業によってできているものなので、苦諦に決まっていますよね」と仰られた。

我々仏教に関わっているものでも普段はあまり意識していないが、この世界は「壊れゆく場所」であり「苦しみである」というのが事実なのである。仏教に基づいて考えれば、今回の西日本の災害があったこの世界はもともと苦しみであり、現在様々な善意によって復興されつつあるこの世界もまた苦しみであることが事実であるということになる。

ダライ・ラマ法王が以前宮島で引用されたパンチェン・ロサン・チューキ・ゲルツェンの『師供養』には次のように説かれている。

輪廻の過失を思い 苦苦を恐れて解脱を求める思いは牧畜にもある
有漏の楽受を厭離したいという思いは外道にも有る

したがって 行を自性とするこの取蘊が
苦を成すものであり 成す事になるものであり

この器は伝染病や難病や激痛の如くであると
このように考えて修習するのならば効果があるだろう

これに対してダライ・ラマ法王は2006年の広島での法話会において、次のように解説をされた。

ここでは、輪廻の欠点に思いを寄せて、「苦苦」から逃れたいという思いは畜生にも共通しているものですし、また、「壊苦」である有漏の楽受から逃れたいという気持ちは、外教徒にも共通するものですので、仏教徒が苦の修習する時には、第三の「行苦」を思う必要が有る、ということが説かれています。

仏教徒たる我々が知るべき苦とは「行苦」がメインであり、しかも我々の外側の世界であろうとも、内側のものであろうとも通常苦とも楽とも思っていないものが、苦であることを知るべきである、ということが初転法輪で最初に説かれる「苦諦」であるということである。ダライ・ラマ法王はこの解説に続けて次のようまた説かれている。

たとえば殺生をしない事は、必ずしも宗教上の実践すべきことだとは言えません。一般に信心深い人は、殺生や殺人をしません。しかし、殺生しないだけでは宗教とは言えません。必ずしもそうではありません。

たとえば違法行為を恐れ、「人殺しはよくない」と自制することもあるでしょう。しかしこの場合の不殺生は単に違法行為に対する恐怖によるのであり、罪悪感によって自らを律して殺生をしないのとは異なり、解脱を得たいので殺生をしないということではありません。この場合には殺生を律している、身体的善は有りますが、そのままでは「法」というものにはなりません。

また同様に「殺生は罪悪だ」と考えている罪悪感に基づいた不殺生は「宗教的な営み」です。しかし必ずしもそれが「仏教」であるという事にはなりません。

ですから、解脱を考え、法宝すなわち涅槃を思い、真実把握には錯誤があると考え、これから離れた解脱の境地、それを得るために、そのために殺生をしないのなら「仏教」と言えるのです。

仏教とは「無上甚深微妙法・百千万劫難遭遇」と呼ばれるように簡単に理解できるものではない。「法輪とは何か」「苦諦とは何か」「不殺生とはどのように実践すべきか」ひとつひとつの教義に重みと深さがある。現代では何でも便利であったり、簡単に理解でき、容易にできることが良しとされるが、その価値観は難解なブッダの教えとは異なっている。

仏教とは高度に知的な教えであり、知性を研ぎ澄ました極限の状態こそが、一切相智と呼ばれるブッダの知である。そしてそれを実現すべき教えだからこそその教えが教えられたことが大変貴重であり、私たちは初転法輪の時が極めて特別な日であると感じることができるのであろう。

かつてケンスル・リンポチェは「立派な家を建てることも実は苦しみの原因を作っているだけなのです」とおっしゃっていた。ゲン・ロサンは六本木ヒルズの展望台から見る夜景を眺めて「やはり輪廻の衆生たちは一生懸命苦しみを作り出している」とおっしゃっていた。釈尊から伝わる法輪をもつゴペル・リンポチェも「このティッシュペーパーだって苦しみに決まってますよ」と笑いながらおっしゃっている。

釈尊がいまから2500年以上も前に説かれたことばと思想は、こうしていまも生き続けている。


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