先週の土曜日は久しぶりに京都で法話会が行われました。
「今日は学校の先生になったね」
と、リンポチェが笑いながら冗談を言われて、法話会が始まりました。
今回は『菩提道次第略抄』の続き、六波羅蜜の精進波羅蜜と禅定波羅蜜、そして智慧波羅蜜でした。
精進 不退なる堅固の衣を纏うなら
教証の功徳は上弦の月の如く満ちてゆく
一切の行住坐臥は有益なものとなるだろう
何をはじめてもその業は意のままに成就する
まずこの箇所では精進の利点について述べられています。精進は、善を喜ぶことです。精進は一般の我々にもありますし、悪に精進するということもあり得ます。しかし六波羅蜜で説かれる精進波羅蜜は、善を喜ぶことが必要です。また、四法を備えている必要があります。四法とは、①精進の反対である懈怠がないこと ②空性を理解していること ③他の望みを円満とすること ④三乗のいずれかであること、です。①は、それぞれの六波羅蜜の反対のものがないことです。例えば、布施波羅蜜ならば吝嗇がないこと、戒波羅蜜ならば破戒がないこと、忍辱波羅蜜ならば瞋恚がないこと、もしくは忍耐強いことです。これら六波羅蜜の反対のことがらが何かを思い起こすことによって、それらが生じてくるのを食い止めることができます。②から④は六波羅蜜全てに共通です。③は菩薩にしかできません。これら六波羅蜜の行は菩薩たちの行です。
こう解することで すべての懈怠を断ち
広大なる精進へと勝子たちは従事する
瑜伽行者たる私も実践をこのようにした
解脱を求める汝もそうするとよいだろう
この箇所では、実践の仕方が説かれます。そして、『菩提道次第略抄』の筆者であるジェツォンカパ自身がそのように実践したことが説かれ、これを読んでいる私達も同じように実践すべきことが説かれます。
禅定 心を完全に征服した王である
至定すれば不動なること妙高山のようである
放定すればすべての善なる所縁へと向けられる
身心は発動可能なる体楽を引き寄せるだろう
禅定波羅蜜でも、まずは利点について説かれます。国を束ねる王がいないと、その国はまとまりません。それと同じように心を束ねる禅定が必要です。禅定はなかなか難しいかもしれません。ですが努力して続けていけば必ず得られます。私たちは法を学ぶことと実践を同時に行っていかなければいけません。まず最初に禅定というものが何かわからなければ瞑想することもできません。ですので、学びながら実践を行っていくのです。
瞑想を行う際、対象はどのようなことでも構いません。「空性や無我、四諦十六行相は難しいから自分は瞑想できない」と考える必要はありません。柱や木や花などなんでもいいんです。禅定とは、心を一つの対象に留めることです。そして止を得ると、心があちこち行ったり来たりしなくなります。
瞑想を行う際、一つの対象を考えます。その時に注意が必要なのは惛沈(こんじん)と掉挙(じょうこ)です。掉挙は外の対象に心が向かうことですが、これは「あ、自分の心外の対象に向かってるな」と気づきやすいです。一方の惛沈は心が内に向かうことですが、これは見極め難いです。瞑想を行う際、修習している対象に心をとどめ、その対象が心にはっきりと浮かびあがる必要があります。それがはっきりしなくなっている状態が惛沈です。ある人は、「心に何も浮かばないから禅定を得た」と考えていますが、それは禅定ではありません。これはわかり難いので注意が必要です。
こう解することで 瑜伽自在なる者たちは
散乱という魔軍を制する定に常に依っている
瑜伽行者たる私も実践をこのようにした
解脱を求める汝もそうするとよいだろう
そしてこのように修業することによって、三昧の六地や九地を得ることができます。
智慧 甚深なる実践をみる眼
有の根源を根刮ぎ断ち切る道
一切の教説で賛嘆される功徳の蔵
愚痴を払闇する最勝の妙灯と謂われる
智慧は眼に例えられます。空性を理解する智慧があると、輪廻の根本である真実執着を断ち切ることができます。智慧に慣れ、修習することによって一切智者になることができるのです。智慧は無明をなくす最高の灯明のようなものです。灯明という原因によって、無明をなくすことができるのです。一般に智慧といっても色々あります。智慧を伸ばすためには論証方法を学ぶのが一番です。チベットの僧侶は問答を行いますが、これによって智慧が伸びるのです。そうすると、空性や無我、四諦十六行相などどのような対象でもしっかり考えることができるのです。
以上が5月19日に行われた法話会のまとめでした。