「新しい知識などを得るために読んでも、意味がないということですね」
ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』の法話を聞いていた時に、先の言葉に耳が止まりました。実は、以前疑問に思ったことがあります。ダライ・ラマ法王の法話にはゲシェーをとって僧侶の方たちも参加します。しかし、彼らは仏教の最高学位を修めた身、本来ならば法王の話される内容は、全て理解しているはずです。にも関わらず、どうして法王の法話を聞くために、わざわざ南インドやダラムサラなどに出かけて行くのでしょうか。
「これは教えに慣れるために読んでくださいということですよ」
テキストを読み返すこと、法話会に参加することは、何か自分の知らないことを知るためではなく、知っていることを何度でも聞いて修習するためなのですね。学問の習得が終わってもそこに腰を据えるのではなく、その先、さらにその先へと進んでいかなければなりません。
4月に行われた広島での法話会で、リンポチェは、
「ゆっくり進めていこうと思います。早く進んでも心に残らないですからね。今日聞いたことを帰って読み直し、また質問があればきいてください」
とおっしゃっていました。多く学ぶことも時として大切ですが、学んだ気にだけなって、心に残らないことが往々にしてあります。それよりもゆっくりゆっくり心に馴染ませていった方が、着実に定着します。急がば回れ、ですね。
「私も若い頃は空性と聞くと、何かとても遠いもののように感じたものです。ですがそれにも慣れることが可能なのです」
という法王のお言葉を信じて、私達も進んでいくしかありません。なかなか変化は見られないかもしれませんが、もっと長い時間で考えたときには、必ず心が変化しているはずです。
インドのアサンガは、弥勒にお会いしたい一心で洞窟で観想を行われたそうです。ですが、3年経っても何の兆しもみられなかったので、もうあきらめようと思われました。しかし、鳥の羽根で岩を摩滅させようとする人を見て、自分はもっと努力が必要だと心改めて、観想に励まれました。しかしやはり3年経っても何の兆しもみられないのであきらめようとされた時、水滴が岩に落ちて穴を開けているのをご覧になって、心奮い起こして更に修行に励まれました。しかしやっぱり3年経っても何の兆しもみられないのであきらめようとされた時、鉄の槍を布でぬぐって針を作ろうとしている人に出会われて、やっぱりもっと頑張らなければと修行を続けられました。最終的には、下半身にウジのわいている犬と出会い、慈悲の心からウジ虫を舌で舐めて取り払おうとしたされた時に、ついに弥勒が現れになったということです。
時として挫折しそうになる時もあります。心散逸になって、教えを忘れてしまうこともあります。でも、諦めずに一歩一歩歩んでいきましょう。